たとえ二度と会えなくても フーガと晴彦の場合

掲載日:2011-10-09

フーガの場合

 耳に響くカナエの絶叫。僕の名前を叫んだ、その狂おしいまでの声。この腕からカナエの存在が消えて、どれくらい時間が経ったのだろうか。カナエを抱きしめていたその場所で僕はただ座り込むしかなくて、あらゆる景色も音も遠かった。姉さんがしばらくドアのところで立ち竦んでいたはずだけど、いつの間にか割れた食器を片付けていなくなっていた。陽が落ちて暗くなった居間に、僕は一人。
「カナエ」
 呼んだ。いとしい人を。けれど言葉を返してくれる人は、もういない。不思議と心は静かだ。どこまでも深く沈んで身動き一つとらず、僕の中の全てが眠ってしまったようだ。カナエを失う恐怖に我を忘れたこともあったはずなのに、実際に失った今は、こんなに冷たい。
 固く目を閉じて大きく息を吐いてから、立ち上がった。ずっと座りこんでいた足は痺れて痛んだけれど、テーブルを支えにしっかりと立った。そしてそのまま、ふらついた足取りでカナエの部屋に向う。カナエの部屋のドアノブに手を掛けて、もう一度深呼吸。ドアノブをひねり扉を開いて――。
 一歩部屋に足を踏み入れた途端、眩暈がした。冷たく眠っていたはずの心が、焼き焦がれそうな熱を持った。斬りつけるような痛みが全身を貫く。思わずその場に膝をついて、呆然とカナエが暮らしていた部屋を見つめた。
 少し乱れたままのベット。その上に放り出された読みかけの本。カナエが自分で縫った枕カバー。一緒に買い物に行った時に買っていた鏡。机の上に広げられるノート。月明かりに照らされうっすらと浮かび上がる、この部屋。カナエの気配。カナエがここにいた証。――主を失くした静けさ。
「カナ、エっ、」
 声が漏れた。そして一緒に溢れだす、涙。もうその声を聞くことはできない。もうその笑顔を見ることはできない。もうその温もりに触れることはできない。もう二度と会うことができない。
 どうして――! 床を殴りつけて激情に耐える。張り裂けそうな苦しみ。引きちぎれそうな悔しさ。皮膚が裂けて血がにじみ出した手のひら。僕は全然わかっていなかった。カナエの苦しみも、ここで生きることを選んだ意味も。
 大切な人を奪われたことがこんなに苦しいのに、カナエは世界そのものを奪われてここに来た。それでも前向きに笑って、この街を好きになってくれた。自分の世界へ繋がる唯一の輝きすら手放して、僕を選んでくれた。ここにいたいと言ってくれた。その決断は、彼女にとってどれほどの覚悟を要したのだろう。
 別の誰かを想っていることに嫉妬した。いつか消えてしまいそうなことに恐怖した。繋ぎ止めたくて抱きしめた。――なんて滑稽なんだろう。カナエは一人で苦しんでいたのに。カナエのことを考えているふりをしながら、自分のことばかりだ。いとしいから傍にいてほしくて、大切だから笑ってほしかった。
 会いたい。会いたくてたまらない。二度と会えない悔しさは、耐えがたいほど鋭く、心も体も突き刺した。会えない。会いたくてもどこにもいない。叶はハルヒコさんのいる世界に帰った。
 吐くようにその場に屈みこんだ。今まで出したこともない大声で音を発する。零れ落ちる涙に顔も手足も濡れて気持ち悪い。自分の身を抱きしめる爪が皮膚に食い込む。頭が殴りつけられたように叫ぶ。
 ――ああ、僕はカナエを愛している。こんなにも愛していたんだ。

晴彦の場合

 目が合うと、叶は一瞬だけ視線を怯えたように彷徨わせてから、何事もなかったかのような笑顔を浮かべる。そして俺も笑顔で彼女に挨拶をする。廊下で通学路で、儀式のように繰り返された光景。叶と別れたあの日からの、暗黙の了解。
 何の前触れもなく別れた俺達に、お互いの友達は驚いて理由を聞いてきた。俺は「恋人でいるより友達でいたほうが気楽だって気がついたんだ」とか苦しい言い訳で誤魔化したのに、叶はきっぱりと「あたしが浮気して別れてくださいって言ったの」と身も蓋もない返答をして周囲を絶句させた。俺の友達ばかりでなく叶の友達も同情して俺の味方になってくれたが、うれしくはない。その発言のせいで友達から少し孤立気味になった叶が心配でならなかった。叶は「あたしの問題」と苦笑していた。孤立の原因は俺と別れたことばかりでないようで、どこか雰囲気が変わり大人びた叶に、周囲が戸惑ったことも関係していたらしい。
 ――正直、叶の話を全て信じたわけではなかった。
 異世界に飛ばされて、そこで知り合ったフーガとかいう男と心を通わせたなんて、信じろというほうがどうかしている。それでも受け入れたのは、叶の想いは別の男にあるということだけは本気だとわかったからだ。異世界だとかはどうでもよかった。叶の心を占めているのは、俺じゃない男への想い。冗談じゃなかった。前の週の金曜日に会った時は、確かに俺に向いていたはずの目が、三日会わなかっただけで俺じゃない遠くを見ているのだ。不愉快だったし悔しかった。 それでも引き止めることはできなかった。
 短かった髪は伸び、どこか大人びた顔はやつれていた。妙に静かな声、力強い光を宿した澄んだ瞳。そして、指輪をしない手が握りしめる緑のペンダント。そんな姿を見て食い下がれるほど強くない。
 奇跡が起こらなければ会えないと言うぐらいなのだから、みっともなく意固地になって抱きしめ続けていれば、叶の心は俺に戻ったかもしれない。けれど叶の覚悟に圧倒された。痛々しいくらい必死にフーガという奴への想いを守ろうとしている叶に、触れることは許されない気がした。
 ――「別れてください」
 その言葉一つで叩き落とされ、平静を装おうと足掻いた。足掻けば足掻くほど頭の中は混乱に侵食され、静かな炎の灯る瞳に追い詰められた。その結果、馬鹿みたいに物分かりのいい態度で取り繕い叶を失った。
 あの時どうすればよかったというのだろうか。どうすれば、叶を失わずにすんだというのだろうか。叶が好きだ。図書室で真剣に文字を追う姿に、いつの間にか心惹かれていた。大人しいと思っていたのに、実際に話してみると前向きで明るく笑いながら、少し強引に突っ走り驚いた。興味を失うどころか、ずっと傍で見ていたくなった。激しい葛藤の後、告白をすれば「あたしも――細川くんが好き」なんて言葉と笑顔を惜しみなく贈ってくれた。今でも俺は叶が好きなのに、もうその言葉も笑顔も別の男のもの。
 どうして。どうしてなんだよっ。その声も言葉も笑顔も温もりも、全部俺がほしい。俺の傍にいてほしい。俺が傍で見ていたい。なのになんで他の男のものなんだ? いくら二度と会えないとしても、根こそぎ奴は奪っていった。会えなくてもいまだ奴のものだ。
 傍にいるのに手が届かない。声をかければ振り返るのに言葉は届かない。叶が好きだ。大好きなんだ。――好きなのにっ!

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