たとえ二度と会えなくても 三年後の叶とフーガ

掲載日:2011-10-09

三年後の叶

「楠木ちゃん、お昼どうする?」
 教授が「今日はここまで」といった直後に、隣に座っていた友達が尋ねてきた。すでにペンやノートをバックに直し終わり、立ち上がっている。
「あたしはお弁当だから、ここで食べていくよ」
「そ? じゃあ私は食堂に行くから、また午後ね」
 言うだけ言って、大急ぎで友達は教室から出て行った。あれだけ急いでいるとなると、目当ては昼休みになるとすぐに売切れてしまう定食かもしれない。急いでいた友達とは反対に、あたしはのんびりとバックからお弁当を取り出した。今日の朝はゆっくりだったから、お弁当の内容も豪華だ。黙々とおかずとご飯を交互に食べていると、誰かが「暑いね」と言って窓を開いた。
  ――そして、波の音が響いた。それだけで、あたしの心はあの時に飛ぶ。あの時から三年の歳月が過ぎた。それでもあたしの記憶には、鮮やかに残る大切な想い。
 アーリシアから戻ったあたしはがむしゃらに勉強をした。受験まで半年を切っていたのに、一年近く向こうにいたことでかなり成績が落ちてしまった。けれど脇目も振らず勉強したことで、アーリシアのことを考える暇を与えなかったのは、よかったと思う。今でこそ苦い痛みがあろうとも冷静に振り返ることができるが、あの頃は思い出すと潰れてしまいそうだった。でも、なんとか本命の大学に合格できて安堵したら、やっぱり泣いてしまった。
 私の専攻は、日本文学。もともと国文科志望だったけど、フーガと出会ったことでもっと強く日本文学に興味を持った。日本の文化に興味を持ってくれたフーガに、満足に伝えることができない自分がもどかしかった。 だから、ちゃんと日本文化を勉強したいと思って今に至る。三年になってゼミも決まったから、今は江戸文学を中心に勉強しているけど、フーガには現代のことしか教えていなかったなと改めて思う。
 フーガ・クロスレット。あたしが恋した人。全てを捨てても傍にいたい選んだ人。けれど、もう二度と会うことはないであろう人。結局フーガのことが忘れられなくて、海の近くの大学に進学してきてしまったくらいだ。いまだ夜ごとにフーガを想って張り裂けそうな痛みを持て余す。
 ――それでも。いつでも身につけている深緑のペンダントを、握り締めた。目を閉じて、フーガに祈りを届ける。「叶」の名前に込められた願いよ。この祈りだけでも届けてください。
 あたしはこの世界で生きていくから。絶対、幸せだと胸の張れる人生を生きるから。だからどうかフーガも幸せに満ちた人生を生きてください。
 これからどんな恋をするのだろう。どんな縁を結び、どんな別れを経験し、どんな大人になり、どんな生きがいを見つけ、どんな生涯を送るのだろう。
 奇跡によって会えた。奇跡によってしか会えない。だけど、奇跡じゃない確かなものがある。あたしはあなたに恋をした。あなたはあたしを想ってくれた。あなたに出会うことがなければ、この胸の高鳴りも痛みも知ることはできなかった。あなたとの思い出を積み重ねることもできなければ、あなたのいない人生を知ることもなかった。あなたに会えた。だから、今のあたしがいるのよ。
 ――フーガ。あなたが大好きよ。あなたのこと、決して忘れたりしない。

三年後のフーガ

「よう先生!」
 背後から聞こえた陽気な呼びかけを、できれば無視したいと思った。だが聞き間違いようもなく自分への呼びかけで、この声にも大いに思い当たる人物がいるのだから、無視しても無意味だ。
「先生はやめろと言ったじゃないか、コニー」
「先生は先生だろ」
 渋々振り返って苦情を口にするが、気楽な笑顔で手を振るコニーはすぐさま反論。もう何回繰り返したかわからない問答を続ける気にはならなくて、ため息をついた。僕は学業を修めた後は、語学教師の職に就いた。子供相手というより、大人相手の仕事だ。首都よりも多く外国人が集まるこの街では、ディルレイラ語習得を必要とする者や、多言語習得を必要とするものなどが多い。これも、カナエに出会ったからこそ興味を持った仕事だ。
「今から仕事か?」
 頷いて沈みかけた太陽を見る。あと数刻もすれば辺りは夕日に染まる時間帯。仕事をする大人が中心の生徒を持つ僕は、これからが仕事時間だ。
「君は帰りか?」
 学校に通っている間はめったにお目にかかれなかったコニーのパリっとした服は、上質な生地でできている。これも現在就いている仕事の制服らしい。コニーは領家が取り仕切る外交関係の役職に就いた。他言語を操るばかりでなく明るく交渉の上手いコニーは、外交窓口見習いとして去年から仕事に精を出している。学生時代に比べれば、かなり真面目になった。
「帰る前に、嫁さんに頼まれた買い物があるんだよ」
 そう、いまだ実感がないのだがコニーは一年前に結婚した。しかもその奥さんのお腹にはコニーの子供が宿っていて、もうすぐ一児の父となる。意外にもコニーは、大きなお腹で苦労している妻の手伝いをせっせとしている。今回の買い物も、頼まれたというよりは自分から行くと言ったのだろう。
「いい夫だな」
 照れるか、「そうだとも」と胸を張るかといった反応を見せるだろうと思っていった言葉だが、予想に反してコニーの表情が真剣になった。
「……お前は結婚しないのか」
「相手がいないよ」
 質問自体には驚いたが、反射的に即答した。するとコニーは目に力を込める。
「探す気もないだろう」
「そんなことないよ」
 雲行きが怪しくなってきた。探るようなコニーの視線を剥がすように、顔を背ける。
「嬢ちゃんは、もういないんだろ」
「それは……」
 たまにコニーはこうやって、あまり触れてほしくないことを暴き立てる。それが僕のためだとはわかっているけど、いい気はしない。コニーやルーシーさんといったカナエが異世界の人間だと知らない知人には、カナエは突然国に帰ることになったと話した。その国は遠くて、もうアーリシアにくることも、カナエの国に行くこともできないとも言った。
「カナエがいないからって、なんだ」
 知らずに声に棘が混じった。
「いい加減、嬢ちゃんのこと引きずって操立てするのもやめろよ」
 コニーの声にもかすかに苛立ちが混じっている。だが、これも時折言われる言葉だ。コニーばかりでなく、姉さんにも。僕はポケットの上から、そっとカナエがくれた懐中時計に触れた。確かな感触に、カナエが存在したことを実感する。
「別にそういうのじゃないよ。好きな子ができないだけだ」
「引きずってるからだろうっ」
 間違ってはいない。今でもカナエのことが好きだから、他の子に興味がないのだ。わかっていても、想いは色褪せてくれない。
「仕事に遅れるから、もう行くよ。奥さんによろしく」
 ほとんど一方的に別れを告げて、コニーに背を向けた。後ろで叫ぶ声が聞こえたけど、無視させてもらおう。
 カナエがこの腕から消えて、三年が経った。耐えられるはずもないと思った月日は確実に過ぎて、僕はそれなりに幸せに暮らしている。姉さんに子供が生まれて毎日楽しい忙しさがあるし、仕事はやりがいがあるし、コニーをはじめとする友人達ともよく会う。幸せだ。心からそう思う。
 けれど、カナエがいない。それだけが、悲しい。ハルヒコさんのいる世界に帰ってから、三年も経っているのだ。僕と過ごした時間と折り合いをつけるには、充分な歳月。たとえ今でも僕を好きだといってくれても、決して叶わぬ想い。ならばそんなもの、振り切って歩いてほしい。カナエが幸せでいるなら、それでいい。
 ポケットから金の懐中時計を取り出して、握りしめた。体を貫く衝動に、耐えた。
 ――「たとえ二度と会えなくても、僕は君を思うよ」
 そう言ったのはいつだっただろうか。今でも僕は君を想っている。そして、想い続けることが残酷なことだと知った。想っているのに、会いたいのに、それを伝えることすらできないのは、ただただ辛い。隣に誰がいても、カナエが幸せでいればいいなんてきれい事だ。きれい事すぎて、虚しくなる。それでも僕はそう思わないと耐えられない。二度と会えない彼女を想って、気が狂いそうになる。
 だから、幸せに。どうか、幸せに。願うことで癒されるならば、いくらだって願ってみせる。
 ――カナエ。それでも会いたいよ。

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