たとえ二度と会えなくても 7

掲載日:2011-10-09

 今日はフーガとリザさんと三人でのお茶会。リザさんがおいしいお菓子を手にいれて、みんなで食べようと召集をかけたのだ。
「もうすぐ義兄さんが帰ってくるから、浮かれているんだよ」
 そう、あと半月ほどで帰るとラサエルさんから手紙が来た。リザさんは鼻歌を歌いながら、部屋の掃除をしたり、庭の手入れをしたりと大張りきりだ。今日のお菓子もラサエルさんに食べさせるのが目的で、今回は味見だ。
「でも、リザさんが見つけてくるお菓子っておいしいから好き」
 この前持って帰ってきた原色に近い奇抜な色のクリームを使ったケーキは、見た目の恐ろしさからは考えられないほど、おいしかった。クリームの色は果物の皮やらと言ったものを入れているらしかった。それに、フーガもリザさんもラサエルさんも甘党だ。もちろんあたしも。お互いにおいしそうなお菓子を見つけては一緒にお茶会をする。おいしいものはみんなで食べたほうがいい、というリザさんの持論にのっとり、おいしそうなものを発見次第、召集をかける。今日のお菓子はなんだろう。リザさんはまだ教えてくれない。
 あたし達が付き合いはじめたとリザさんに伝えると、「今まで付き合ってなかったの?」とニヤニヤ笑ってから、「おめでとう」と祝福してくれた。うれしかった。フーガと想いを伝え合ったこともうれしかったけど、それと同じくらいにうれしかった。大好きな人に祝福されることは、幸せだった。
 すぐ隣にはフーガの温もり。見上げれば穏やかな深緑の瞳。優しい笑顔。フーガのポケットの中で、時計が静かに時を刻む。
 幸せ。あなたがあたしのそばにいるという幸せ。確かな温もり。確かな感触。フーガはここにいる。あたしは、ここにい――、

 視界が歪んだ。目の前が真っ暗になった。

 何度か瞬きをすると、視界が戻る。
「カナエ!」
 フーガがあたしの肩を掴む。いつの間にか椅子からずり落ち、床に座りこんでいたようだ。いまだに、体に力が入らない。
「――カナエ!」
 フーガの声が悲鳴に変わった。どうしたの? 視線を落とす視界に入ったのは、あたしの地面にぺたりと座る足。透けた、足。透けた? 両手を見る。
「あ、ああ、ああああ」
 意味のない音があたしの口から漏れた。だって、だってあたしの手が透けているのよっ。あたしの体が、透けているのよ!
「ふー……が」
 なんなのこれ! なんなのよ! フーガがあたしをきつく抱きしめる。
「行くな!」
 悲痛な叫び。嫌、嫌だよ。どうして? どうしてなのよ!
 ガシャンと物が割れる音がした。扉のところで、リザさんが呆然と立ち尽くしている。その足元には、あたし達のために用意してくれたお茶やお菓子が、砕けた食器ごと散らばって――。リザさんの血の気のひいた唇から、もれる言葉はあたしの名前。
「いやだ、ここにいたい! ここにいたいのよぉ!」
 あたしもフーガにしがみつく。どうして。どうして離れなければならないのっ。こんなに近くにいるのに。こんなに温もりを感じるのに! 大好きなのよ。フーガもリザさんもこの街の人々もっ!
「行くなっ。お願いだから行かないでくれ!」
 行くなと、痛いほど力を込めて。
 急激にあたしの意識が遠のいていく。
 それでもただ、抱きしめて。フーガの名前を。

「――フーガっ!」

     ***

 ……目に飛び込んできたのは、見覚えのある机。机? 勢いよく立ち上がった。が、足もとは柔らかく、体勢を崩して地面に転がり落ちる。――転がり落ちる?
「あたしの、部屋?」
 さっきまで座っていて、転がり落ちたのはベットだった。疑いようもないほど、はっきりと記憶にあるベット。あたしの部屋。あたしの、あたしの家の、あたしの部屋の、あたしのベット。
「元の世界」
 呆然と呟いた。戻ってきてしまった。戻ってきてしまったのだ! 唇を噛みしめる。拳を握りしめる。抑えられない激情があたしの中を駆け巡るっ!
「なんでっ――!」
 覚えてる。残らずみんな覚えてる。なのにもう二度とフーガには会えないの? リザさんにはもう会えないの? ルーシーさんにもラサエルさんにも、街の人にも会えないの!
 どうして失わなければならない。どうして一度奪ったものを再び与える! あんなに帰りたいと望んだ時は帰してくれなかったのにっ。こんなにフーガと一緒にいたいと願った途端に帰すというの? ひどい、ひどすぎるよ!
 溢れる涙が止まらない。悔しさと切なさに叫びたい。
 ――携帯が鳴った。
 あたしの意識がはっきりと現実に戻る。そうだよ、今はいつだ。どれだけの時間が過ぎた? 震える手で携帯を手に取り開く。着信は、晴彦。カッと体中の血が沸騰した。
 落ち着いて、落ち着いて日付を見るのよ。今日は何日? 日付はあたしがアーリシアに跳んだ土曜日の朝。ちょうと一年が経った? それとも、こちらではほんの少ししか時間が過ぎていないの? だって晴彦から電話が来てる。それはつまり、時間が経っていないと考えたほうが自然でしょう?
 ああ、フーガと過ごした日々が幻のようだ。――違う。幻なんかじゃない。あれは確かにあった日々。この胸の痛みが嘘なわけない。
 鳴り続ける携帯。通話ボタンを押せば、晴彦の声が聞ける。晴彦が、すぐ近くにいる。深呼吸をして、ゆっくりと電話に出た。
『あ、おはよう。起きてた?』
 懐かしい、声。
「晴彦……」
 なんと言えばいいのだろうか? なんと言えるだろうか? 涙がさらにこみ上げる。
『どうした』
 震えたあたしの声に驚いているようだった。変わらない。変わるはずもない。彼にとっては昨日の今日。なのにあたしは、指輪を手放して、他に想う人がいる。
「なんでもないの……ごめん、今日はあたし熱があるみたいで……。つらいから、今日の映画やめにしていい?」
 そう、今日があの土曜日なら晴彦と一緒に映画を観に行くはずだ。あんなに待ち望んでいたデート。あの日から、続きを紡ぐことができる。甘い誘惑。けれど、決して受け入れられない誘惑。
『大丈夫か。見舞い、行こうか?』
 その優しさが、痛い。
「大丈夫。心配しないで。あんまり人に会いたくないの」
『まあ、そうだな。見舞い行くと、逆にお前無理に起き上がりそうだし。わかった。ちゃんと寝とけよ』
「うん。ありがとう。ごめんね」
 本当に、ありがとう。
『じゃあ、お大事に』 
 本当に、ごめんなさい。


 部屋から出た時には、お母さんは仕事に出かけていた。リビングのテーブルの上には『今日は晴彦くんと出かけるのよね? 夕飯は食べてきてね』と書かれたメモ。お母さんの、懐かしい字。
 それだけじゃない。家の中の全てが懐かしい。帰ってきたんだと思い知る。あたし専用のマグカップ。お母さんの好きなファッション雑誌。修学旅行で買ってきたシーサーの置物。お母さんが衝動買いした値の張る絵画。――あたしの家。
 込み上げる想いに泣いた。ただひたすら、声を嗄らした。


 あたしは一人、深緑のペンダントを握りしめる。日も落ちて真っ暗になった部屋の中、身を縮こまらせる。七時頃に仕事から帰ってきたお母さんは、あたしを見ると不思議そうな顔で「髪、そんなに長かった?」と言った。
 久しぶりに会うお母さん。お母さんにとっては昨日の夜に会ったばかりだ。でもあたしは、お母さんの知らない時を過ごして成長している。髪も伸びたし、背も伸びた。顔つきも、変わったかもしれない。
 お母さんは、一瞬で顔色が変わった娘に驚いて「どうしたの?」と心配してくれてたけど、あたしには何も言えない。口を開けば、責めてしまう。『叶』なんて名前、いらないと。何ひとつ願いは叶わない。大切な思い出すら引き換えにしてでも、願ったのに。フーガと共にいることを。こんな名前いらない。こんな運命はいらない。そういって、お母さんに向かって激情をぶつけてしまいそうだった。だから逃げるように部屋に帰り、鍵をかけてベットにうずくまる。お母さんが心配して一度様子を見に来たけど、無言で拒絶した。それしか、できなかった。
 それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。お母さんは諦めたらしく、もう部屋をノックしなくなった。あたしはただ、声を押し殺し、悔しさに泣いた。
 『海神姫の祭典』で買ってもらったペンダント。フーガの瞳と同じ、深緑の光。そんなものを、運がいいのか悪いのか持ち帰ってしまった。否応なしに思い出す。面影がちらつく。アーリシアでは銀の指輪。ここでは深緑のペンダント。あたしはいつも大切な思い出を連れてきてしまう。
 指輪はよかったの。あれは、勇気をくれたから。けど、このペンダントは違う。フーガへの繋がり。フーガとの思い出。フーガと出会った証。選んだのに。あたしは、フーガを選んだのに。
 血を吐くほど叫んだ。涙が枯れるまで泣いた。皮膚に爪を立て、痛みで紛らわせようとした。それでも収まりきらない激情に、あたしは無茶苦茶に暴れた。
 あの人を想う。あの人の声も、優しさも、温もりも、ちゃんと覚えてる。たとえもう二度と会えなくても、決して忘れることはない。
 「会いたい」と狂おしいほど叫んだ。

     ***

 アーリシアから帰ってきた三日後。月曜はさすがに休んでしまったけど、三日目には学校へ行った。
 もう肌に馴染まない制服。何を持って行けばいいか判断がつかない荷物。いつもどのぐらいに出ていたかわからない家を出る時間。たどり着くまでに疲れてしまった通学路。どれが自分の場所かわからない下駄箱と机。誰が誰だかすぐには思い出せないクラスメイト。話についていけない友達との会話。全然覚えていない授業。
 あたしは変わらない日常に馴染めない自分を自覚した。確かに流れていった時間を自覚した。
「叶、もう風邪は大丈夫なのか」
 わざわざ離れたクラスから様子を見にきてくれた晴彦。その姿が視界に入った途端、声を出さずにはいられなかった。「晴彦」、と。
 何度も会いたいと叫んだ、いとしくて懐かしい人。その声に、その姿に、その温もりに、その存在に、会いたかった。だから、あたしは心に決める。今日の放課後に話があるから晴彦の家にお邪魔させて、と告げた。


 晴彦の部屋は本やCD以外にはあまり物がない。本もきっちりと棚に納められているので、すっきりとした部屋といえる。あたし達の間を挟む小さなテーブルの上には、白い湯気のたった紅茶。熱い飲み物が好きな晴彦。猫舌の、あの人。
「別れてください」
 あたしは深く、頭を下げた。
「なっ――」
 二人が腰を落ち着けてから、唐突に切り出したあたしに、晴彦は絶句で答えてくれた。眼鏡の奥で見開かれた瞳は、何度も瞬きをしている。
「別れてください」
 あたしはもう一度言った。長い沈黙。
「いきなりなにを……」
 ようやく晴彦が紡ぎだした声は、かすれていた。
 まっすぐと晴彦を見る。それしかあたしにできることはない。それしかこの気持ちを訴える術はない。逃げることなんてできない、あたしのけじめ。
 不意に、晴彦の視線が動いた。その先はあたしの左手。たぶん、薬指につけていた銀の指輪がないことに気がついたのだろう。あたしは撫でるように、かつて銀の輝きがあった指に触れた。こんな風に、何度指を這わせたことだろう。不安で寂しくて悲しい時、支えてくれた銀の輝き。晴彦との思い出。晴彦に繋がるもの。おそろいの指輪は、晴彦の服の中にあるはずだ。指につけるのを嫌がって、チェーンを通して首からかけているから。
「どういう、ことなんだ」
 冗談だと笑い飛ばせないと悟ったらしい晴彦は、渋い顔で促した。切なくなった。彼はやっぱり、あたしの好きな人だ。突然の横暴にも、受け止めようとしてくれる。そんなひとつひとつの晴彦が、その全てが好き。
「好きな人がいるの」
 だから正直に話す。彼が傷付くとしても、このままずるずると関係を続けることはできない。あたしは選んだのだから。痛みの走った晴彦の目から視線を逸らさない。逃げては、いけない。
「……いつから?」
 紅茶に口をつけ、落ち着きを取り戻してから晴彦は口を開く。
 ――いつから? この質問は返事に困る。だって、晴彦にとっては昨日の今日。でも、あたしにとっては一年近い歳月。その中での、想い。
 確かに晴彦のことが大好き。今だってそれに偽りはない。ただ、晴彦とは別に好きな人ができた。そして、その人を選んだ。
「わからない」
 どう言えばいいかわからない。
「そいつと付き合うの?」
 ――俺と別れてそいつと付き合うの? 必死に感情を抑えて、あたしが怯えないように問いかけてくれる。泣きたくなった。
「それはできない」
 できないのよ。あの人と付き合うことなんて、もうできない。
「それは……俺を気にして? それとも両思いじゃないの?」
「あたしはそんないい子じゃないし、あの人もあたしを好きでいてくれる」
「じゃあなんで」
 無理なの。泣き叫んだってだめなの。もうあの人には――。
「あの人には会えないの」
 世界中どこを探したっていない。どんなに努力しても無意味。
「まさか……死んで」
 あたしの言い方だったらそう捉えてしまうのだろう。でも違う。
「死んだわけじゃない。でも会えない。奇跡が起きなければ会えないという意味なら、同じようなものかもしれない」
 奇跡によってあの人に会えた。奇跡によってしかあの人に会えない。
 困惑する晴彦の表情を眺めながら、やっぱり全てを話したいと思った。それが正しいかどうかはわからないけど話したかった。話せる人は、彼しかいなかった。
 たった三日。晴彦にとってはたった三日の間に、あたしは変わった。一年半にも満たないけど、確かにそれだけの永い日々があった。
 あたしは飛んだ。あの人のいる世界に。
 どこからどう話していいかもわからない。ふざけるなと怒るかもしれない。呆れ返ってもう話を聞いてくれないかもしれない。それは普通の反応だし、あたしだってそんな反応を返すに決まってる。それでもこれは真実だ。あたしのとっては、かけがえのない真実だ。
 あたしはあの人に恋をした。あの人はあたしを好きになってくれた。もう会うことはできないけれど、これからもずっと好きな人。
 あたしは話す。語る。振り返る。フーガとの日々を。アーリシアでの日々を。困惑をあらわにしながらも晴彦は黙って聞いてくれた。時々何か言いたげに唇が動くけど、話を遮ろうとはしない。
 好きよ。そんなあなたが好きなのよ。もうあなたの隣にいることはできないけど、今でもあなたのことは大好きなのよ。信じてくれなくていい。でも、このままではいられないの。フーガに出会い、フーガを想い、フーガを選んだ事実は変わらないのだから。
「それで、決定打となった理由は?」
 一通り聞き終えた晴彦は、冷め切った紅茶を流し込むように飲んだ。
「……信じてくれるの?」
 自分でもふざけた話だと思う。すると苦々しい眉をひそめられた。
「そりゃ信じられないさ。それでもお前はそいつが好きなんだろ」
 頷く。
「俺にとっては信じる信じないの問題じゃないんだ。お前には他に好きな奴がいて、そいつと二度と会えなかろうと譲れないんだ」
 そうね。譲れない。
「だから俺は、別れたいっていう思う決定打となったものを知りたいんだ」
 意味がわからなかった。それはもう話したはずだ。あたしには他に好きな人が――。
「それこそ俺を利用してしまえばいい」
 寂しさを紛らわせて、切なさを埋めるように。きっと、あたしがフーガを好きになった理由に同じものがある。寂しかったから。だからフーガに恋をした。でもそれだけではなかったことも知っている。それだけだったらこんなにいとしく思わない。指輪を手放そうとも思わない。
「そうしてほしいの?」
「……微妙だな。前みたいになれる可能性だってありそうだけど、やっぱきついものがあるな」
 フーガと晴彦。二人とも好き。どちらが一番好きではなくて、どちらも別の次元で特別。二人とも、あたしが全然違う人と結婚しても、永久に好き。好きでも恋はいつか終わりを告げる。だからといってこの気持ちが消えるわけじゃない。だって好きになったんだもの。あたしが好きになった人だもの。あたしと晴彦の間の恋はもう終わっている。それにあたし達は気づいている。
「決定打になった理由なんて、どう言えばいいかわからない。それに、晴彦はもう知っているんでしょう?」
 あたしが、選んだということを。
「知ってるね」
 肩をすくめて困ったように微笑む。できれば知りたくなかったと。知らなければ食い下がってでもおまえを引き止めるのに。
 しばらくの間、沈黙が流れた。それは重くもなく、ただ静かで。終わりをいとおしむように。
「じゃあね」
 あたしは立ち上がって扉に向かう。
「じゃあな」
 彼はあたしをまっすぐ見つめて、大好きな笑顔をくれる。それでも彼は決して立ち上がらない。
 これはけじめ。あたしたちが別れるためのけじめ。ここで送ってもらえば未練が残る。だからただ「じゃあね」の言葉だけであたしたちは別れる。
 じゃあね。あたしはあなたが大好きです。

     ***

 あたし達はのんびりと丘の上から海を見ていた。風が吹いて、髪がはためく。空は突き抜けるように青くて、白い雲がゆっくりと流れていく。青く澄んだ海はどこまでも広がっていて、波の音がいとしかった。
「もしもあたしが元の世界に帰ったら、フーガはどうする?」
 海を見たまま問いかけた。返事がなかなか返らなくて、眠っているんだろうかとフーガの顔を見ると、その目がしっかりと開いていて、先程までのあたしと同じように海を見ていた。その目に宿る感情が、何だったかはわからない。
「たとえ……」
 かすれるように呟いたのに、低く、よく通る声。
「たとえ君が帰ってしまっても、たとえ二度と会えなくても、僕は君を忘れない。別の人を好きになっても、君をずっと想うよ」
 静かにフーガの視線があたしに落とされた。ふわりと微笑むあたしに口づけをくれた。

 ――君のことが好きだから。

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