最終更新:2008-10-18
深い深い緑の瞳と目があった。
妙に印象的なその瞳が、呆然と見開かれている。
――それは俺達がヘマをした証だ。
ちらりと横にいる拓雅を見ると、真っ青な顔で脂汗を滲ませている。
きっと今頃、拓雅の頭の中はこの場をどう切り抜けるかと高速回転しているだろう。
もう一度、目の前にいる人物を見た。
俺達より十歳くらい年上の男。
深緑の瞳に、黒髪。
シャツにズボンとラフな格好なのに、どこかパリっとした印象を与える。
その足元には、今まで読んでいたらしい本が落ちていた。
横から視線を感じたので拓雅に視線を移すと、なんだかすごい目で睨まれた。
俺が何も考えずに、ぼんやりと男を観察していたことに気がついて腹を立てたのだろう。
目が「お前もなんか考えろ」と言っている。
……考えるつもりなんて、ないって。
それ、お前の分野。
俺も目で返す。
そしたら拓雅の目に火花が散った。
後で仕返しがありそうだ。
そもそも俺達は人気のない場所に出るはずだったのだ。
なのになぜかこの男の前に出てきてしまった。
つまりはアクシデント。
で、そのアクシデントの原因は拓雅だ。
そのはずだ。うん。
「――何者ですか」
沈黙の中で先に男が口を開いた。
低く耳障りのいい声が、かすれている。
まあ、ビビっても仕方がない。
俺達はこの男の前に、何もない所から突然現れたんだし。
「あなた方は、ここがどこだかご存知ですか」
返答がないことに痺れを切らしたのか、男はさらに言葉を重ねる。
しかし、侵入者に対して敬語を使うなんてどこのお坊ちゃんだ。
「居間」
ひとまずボソリとつぶやいてみた。
たぶんここ居間だし。
そしたら拓雅に足を踏まれた。痛いって。
「失礼ながら」
やっと拓雅が口を開く。
ってか口調変わっている。
こいつはいつも口が悪いのに、こういう時は気味が悪いほど丁寧だ。
「僕達はここがどこだかわかりません。無礼にも侵入したことにはお詫びのしようも――」
「ディルレイラを知っていますか」
拓雅の言葉を遮って男が言った。
「もちろんです。ここはアーリシアですよね?」
ディルレイラ国アーリシア。
俺達はそこに来たはずだ。
拓雅も不信げな顔で対応したが、男はもっと不信げな顔をした。
それにしても、「ここはどこかわからない」で国名を確認する奴も珍しいよな。
港街のここでは、他国の人間が攫われたりして知らないうちに連れてこられている奴でもいるのだろうか。
「あなた方は地球から来たのではないんですか?」
……。
…………なんなんだ、この男。
確かに俺達は地球から来た。
俺は細川灯馬。青春真っ盛りの高校生で、間違いなく日本人だ。
だけど、なんでこの男は「地球」なんて知っているんだ?
この世界と地球は、全く別の世界じゃなかったのか?
「――地球を、知っていらっしゃるんですか」
「ええ」
震える声で尋ねた拓雅に、すでに落ち着きを取り戻した男あっさりと肯定する。
「あなたは地球から来た人間を知っているんですか?」
「知っています」
拓雅が体中から力を抜くように息を吐いた。
数秒まぶたを下ろし、動揺を落ち着かせようとしているようだった。
そして次に目を開いた時、拓雅はしっかりとした声で自己紹介をはじめる。
「僕は東間拓雅といいます。こっちは細川灯馬です」
「タクガ君とトウマ君ですね。私はフーガ・クロスレットといいます」
俺は一度瞬きをしてから、男を凝視した。
思わず口が動いたけど、言葉にはならなかった。
代わりに、その名前を噛み締めるように脳裏に刻み込む。
「地球から来たという方に会わせて下さい。その方も交えてお話したいことがあります」
完全に仕事モードに入った拓雅は真剣な顔で、フーガさんに向かっている。
地球からこちらの世界に落ちた人間とも話さなくてはいけない。
それに、フーガさんにも事情を説明したほうがいいだろう。不法侵入したんだし。
拓雅は、こちらとあちらを自由に行き来できる能力の持ち主だった。
そのため、こちら側から地球、地球からこちら側に落ちた人間のサポートをすることを仕事としている。
だからこそ、そういった人間を見つければ直接会って、話を聞いたり状況の説明をしたりした上で、衣食住の提供などを行う。
だから拓雅は、フーガさんが知っているその人とも会う段取りをつけるためにすぐ行動を起こした。
しかしフーガさんはまっすぐと拓雅を見て、「それは無理です」と口にした。
「彼女は元の世界に帰りました」
きっぱりとフーガさんは言う。
拓雅がぽかんとした顔で男を仰ぎ見た。
「彼女は元の世界に帰りました」
もう一度、フーガさんは言う。
声は静かなのに、その深い緑の瞳には何かの想いが揺れている。
まるで揺れる想いを押し込め、「彼女は帰った」と自分に言い聞かせるように繰り返したように思えた。
「――っ。本当ですか!」
叫んだ拓雅の頬は紅潮していた。
「そ、それはどうやって。その方はこちらとあちらを自由に行き来できるんですか!」
身を乗り出し上ずった声で男に詰め寄る。
興奮する拓雅とは反対に、フーガさんは弱々しい笑みを見せた。
「彼女はたった一度ここに来て、そして帰りました。それだけですよ」
拓雅が目を見開いたまま停止した。
その目が希望に輝いていることを、多分フーガさんも気がついていた。
***
おかしなことになったと思った俺は、フーガさんが用意してくれたアイスティーを手に取った。
そしていつ見ても不気味な礼儀正しく話す拓雅と、それに熱心に耳を傾けるフーガさんを眺める。
それでも暇なので出されていたクッキーにも手を出した。
拓雅もフーガさんもアイスティーにもクッキーにも手を触れていない。話すのに忙しいようだ。
……それにしても寒いよな。
なんでこの時期にアイスティー?
日本では二学期に入ったばかりだが、こちらではそろそろ薄手のコートが必要な時期だろう。
熱く語り合う拓雅とフーガさんには些細なことのようだが、俺は寒いぞ。アイスティーはキツイ。
しかし話に加わる気はない。
仕方がないのでアイスティーを飲むのはやめて、ぼんやりと思い出す。
三ヶ月ほど前、拓雅にディルレイラやらなんやらといった国のある世界について教えてもらった。
当時、高校に入ってからの知り合った拓雅とは一ヶ月くらいの付き合いしかなかった頃だ。
なのにうっかり拓雅の秘密を知ってしまったばっかりに、正座をさせられ約四時間もの説明と軽い脅しを受けてしまった。
俺が四時間かけて聞いた説明が、フーガさん相手だとさくさくと進んでいる。
それもこれもフーガさんが的確に質問を繰り返しながら確認を取っているためだろう。
拓雅も、自分が欲しい情報を持っているフーガさんには親切かつ辛抱強く説明している。
フーガさんは話を理解しているようだが、はっきり言って俺にはいまだ理解できない。
別の世界があるというだけでも驚きなのに、向こう側に落ちたりする人間がいたり、拓雅のように自由に行き来できる人間がいるなんて、実際に目の当たりにしなければ信じろというほうが無理だ。
二つの世界を自由に行き来できるのは、今のところ拓雅とその父親であるマスターだけだ。
マスターは日本の片隅に小さな喫茶店を構えているが、実はディルレイラの人間らしい。
輝く金の髪に鮮やかな青い瞳を持ち、普段はアメリカ人だと主張しているディルレイラ人。
その血を引き継ぐ拓雅は、髪は日本人の母と同じ黒。瞳は深海のような深い青。
その瞳がとても綺麗でうらやましいということは、絶対に内緒だ。
で、なぜ全然別の世界にあるディルレイラの人間が地球で普通に暮らしているかというと、マスターの特異な力のせいだ。
マスターは幼い頃から、『裂け目』を見ることができたらしい。
『裂け目』とは二つの世界の境目にできた穴のようなもので、そこを通れば互いの世界を行き来できるという。
だからといって誰でもその『裂け目』を通ることができるわけではないし、ましてや見ることなんて無理だ。
東間親子が持つ力は、とても特別なものなのだ。
そんな東間親子も、いつでもどこでも好きに世界を移動できるわけではない。
下手にくぐればとんでもない所に跳んでしまうばかりか、帰り道もわからなくなる。
『裂け目』から行き来することに興味を覚えた若かりし頃のマスターは、実験と研究の末に、固定した一つの『裂け目』を拠点にして、マスターが認識する『裂け目』ならどこでも自由に跳べる装置を発明した。
その際、帰りはどこの『裂け目』からでも拠点の『裂け目』に戻ってこれる装置も作っている。
今は、拠点の『裂け目』は喫茶店もあるマスター達の家にある。
どこからどう見ても扉にしか見えないが、すごい装置だ。
しかしその装置はなぜかクローゼットの中にある。何かの小説を思い出す配置だ。
そんな彼らは、その力を持つゆえに仕事をしている。
たまたま偶然運悪く、向こう側の世界に跳んでしまった――それこそ落ちた――人間のサポートだ。
何かがきっかけで『裂け目』に飲み込まれてしまう人が稀にいるらしい。
そんな見知らぬ世界で途方に暮れている人々に、状況を説明し、最低限の生活ができるように家や仕事、戸籍を提供する。
それが、行き来できる力を自分達の義務であると考えているらしい。
「では、トウマ君のように力がなくても行き来できるようになるのですか?」
最もな質問をフーガさんはした。
それに答えることに詰まった拓雅は、曖昧な表情を浮かべた。
こいつは俺が一緒に跳べた時、腰を抜かして驚いたのだ。
まあ、それにはちゃんと理由がある。
今までどれほど切望しても成しえなかったことを、俺があっさり達成してしまったのだ。
不本意に別の世界に落ちた人々は、拓雅達に出会うともちろん元の世界に帰してくれと懇願する。
拓雅達もそれに応えようと努力するのだが、自分達以外の人間を連れて跳ぶことはことごとく失敗した。
人々は自由に行き来できる拓雅達を恨むことすらあるし、拓雅達も力になれない自分を責めていた。
拓雅は別の世界に落ちた人々を、元の世界に帰す方法を探しているのだ。
だから、今回の「元の世界に帰った人」の話は希望への糸口なのだろう。
そんな風に、今まで不可能だった「一緒に跳ぶ」ことを、マスターか拓雅と一緒にという条件は付くものの好奇心で試した俺が簡単に成したのだ。腰を抜かしたってしょうがない。
「それでは、あなた方以外が行き来できる可能性は……ごくわずかなんですね」
そう言ったフーガさんは、どことなく寂しそうな微笑をたたえていた。
俺は思わず視線を外した。
「はい。灯馬という成功例があるので皆無ではありませんが、限りなくゼロに近いです。しかしフーガさんのお知り合いは元の世界に帰れたのでよね。詳しく教えてください。運悪く落ちた人を帰す手がかりになるかもしれません」
幼い頃から父親と一緒に当たり前のように二つの世界を行き来していた拓雅は、嘆き苦しみ憎しみを向ける人々を見てきたのだ。
せっかく力があるのだから、どうにかしなくてはという想いが強いのだろう。
だからこそ拓雅は小さな可能性でも喰らいつく。
むしろ、これは大きな手がかりだ。
「話と言われましても……彼女は一年にも満たないあの日、何の前触れもなくその姿を消しました」
フーガさんの深い緑に陰りが生まれる。
「当時彼女が住んでいた姉の家で――といいますかここで――、姉がお茶の用意をしに行っている間に、私の目の前で消えました」
かすかに震えた声に気がつかないわけがない。
拓雅の表情が強張ったのを視界に捉えた。
フーガの傷に無遠慮に触れてしまったことに気がついたようだ。
拓雅にしては珍しく、興奮で我を忘れていたのだろう。
「その人の名前はなんというんですか?」
微妙な空気になったので、フォローを入れようと初めて俺が口を挟んでみた。
だがあまりいいフォローではなかったことは、殺気だった拓雅の目を見れば明らかだ。
「クスキカナエです。あなた方と同じ日本という国だと言っていましたよ」
意外にもフーガさんは笑顔で答えた。
さらに紙に『楠木叶』と漢字で書いてくれた。
驚く俺達に、「カナエに習ったんですよ」と恥ずかしそうに言った。
――楠木叶。
頭の中で反復してみる。
「どんな人でした?」
さらに拓雅の殺気が強くなった気がするが、今は無視させてもらおう。
フーガさんも、そんな拓雅を見て苦笑している。
「タクガ君も気にしないで下さい。――そうですね、前向きで努力家でしたよ。自分の置かれた状況を認識するなり、偶然出会った私に『ここはあたしのいた世界じゃない』と断言して協力を求めてきましたしね」
「……断言して協力を?」
訝しげに拓雅がつぶやいた。
叶さんの積極性と力強さに、違和感を覚えているらしい。
あいにく俺は会ったことがないが、不運にも別の世界に落ちた人は状況を認識できず茫然自失の状態でかなりの時間を過ごすという。
その過程で力尽きて死んでしまうこともあるし、裏社会に身を落としてしまうことがあるようだ。
運良く人に拾われて生活の糧を得た人でも、その世界を受け入れるまでは長い年月が必要だという。
そんな人達が多い中、自らの状況を認識して拾ってくれた人間にここぞとばかりに喰らいつく前向きさはすごい。
「彼女とは秋の終わりの寒い朝に出会いました。体が冷え切っていたので姉の家に連れてきたんですが、体を温めて朝食を食べた後、突然『ここはあたしのいた世界じゃない』と言ってきたので驚きましたよ」
その光景を思い出したのか、フーガさんは柔らかい笑みを浮かべる。
「そして、衣食住の提供とこちらの世界のことを教えてくれと頼まれたんです」
すごい、というかたくましい。
拓雅も額を押さえている。
「……すみませんが、彼女がこちらに落ちた場所と向こうに戻った時の場所に案内していただけませんか。確認したいことがあるんです」
ひとまずは自分の役目に立ち戻ったあたり、拓雅も真面目だよな。
「カナエが消えたのはここですよ。今日は姉に留守番を頼まれたんです。ちょうど、トウマ君が座っているところでカナエが消えたんです」
――まさにここかよ。
***
「ふーん、偶然の大放出ね」
わけの分からないことを言ったのは、この家の主婦でフーガさんの姉であるリザ・ハイスン=クロスレットさんだ。
ちょっと出かけて帰ってきたら、一人で本を読んで留守番していたはずの弟が見知らぬ人間と一緒にいたのだ。
普通なら「勝手に他人を入れないで!」と怒ってもいいだろうに、「誰、この子達」と聞いて、「タクヤ君とトウマ君です」とフーガさんが言うと、「そう、こんにちは」で会話を終了させたのだ。
さすがにフーガさんが言葉を足して、俺達が地球から来たということを話したら、「偶然の大放出ね」の一言で済ませてしまった。
叶さんが転がり込んできた時も、「じゃあここにいれば?」とあっさり言い放っていたらしいから、こういう性格なのだろう。
……それにしても、適当すぎる。
「地球の人間に会うなんて珍しいんでしょう? なのにまあカナエ以外の人にも会うなんてびっくりね」
熱心に話を聞いていたフーガさんとは違い、リザさんは細かいことには興味がないようだ。
「あの、叶さんがこちらで最初に目を覚ましたところも教えて欲しいのですが……」
拓雅はリザさんに乱されたペースを取り戻すべく、当初の目的に立ち戻った。
すでに叶さんが消えたという場所の『裂け目』はチェックしたのだろう。
だって、座っている俺を問答無用で床に落として何もない空間を凝視していたし。
「かまいませんが、今日は祭典の日なので混んでいますし、たどり着くのが大変ですよ」
祭典。ああ、『海神姫の祭典』か。
ってか、そもそも俺達はその祭典のためにアーリシアに来たんだよな。
「だったら、また今度でいいじゃない。今日は祭典を楽しみましょうよ」
いつの間にか男物のコートを手にしたリザさんが立っていた。
「私とフーガで案内するわ」
「――待ってください。私もですか?」
姉に対しても敬語を使っているらしい礼儀正しいフーガさんは、しかし嫌そうな顔で抗議した。
それに対して、リザさんは強引かつ極上の笑みでフーガさんの肩に男物のコートをかける。コートはフーガさんのもののようだ。
「当たり前じゃない。今日休みでしょう? ナタリーは友達と行っちゃうし、つまらなかったのよ」
貿易関係の仕事をしているリザさんの夫は海の上だという。
いつもは式典に合わせて帰ってくるらしいのだが、今回は取引が手間取って、祭典までに帰ってくることができなかったらしい。
「今日は僕、留守番で来たんですよ」
「あら? そうだった?」
「留守番に来てくれと言ったのは姉さんです」
「だって、そうでも言わないと来ないでしょ?」
「……」
「油断させるために一度出かけたり、私も気を使っているのよ?」
「……」
フーガさんには気の毒だが、リザさんの勝ちだ。
にっこりと微笑んだリザさんに促されて、俺達は祭典に繰り出した。
***
二日目に突入していた祭典は、ものすごい活気があった。
人も道という道に溢れていて、うっかりすると迷子になってしまう。
「食べる、催し物を見る、店を見て回る、どれがいい?」
リザさんが、声すら掻き消されそうな喧騒の中で声を張り上げて聞いてきた。
俺は『海神姫の涙』が見たいと即答した。
アーリシアの伝統工芸品である蒼いガラス玉には、興味があった。
しかも祭典では職人達は自慢の品を出しているという。
今でこそ他の街や国にも輸出されているが、精度も美術性も高い作品が出されるのはこの祭典の日だ。
別に芸術品に興味があるわけではないが、『海神姫の涙』の知名度と美しさは噂に聞いていて、一度この目で見てみたいと思っていた。
「じゃあ職人達が店を出している通りに行くわね」
そして連れて行ってもらった通りは、先ほどまでの通りの倍の人で溢れていた。
身動きをとるのもままならない。
「まとまっては動けそうにないから、二手に分かれましょう。タクガは私と。トウマはフーガに付いてて。後でルーシーさんの店の前で待ち合わせ」
「ルーシーさん?」
てきぱきと場を仕切るリザさんに、拓雅が疑問を挟んだ。
「食堂よ。お昼はそこで食べましょう。もしタクガやトウマが私達からはぐれたら広場の隅っこで待ってて。そこら辺の店の人か紺の制服を着ている憲兵さんに『広場ってどこですか』って聞いたらわかると思うわ」
かなり大雑把だ。
ともかく俺達は二手に分かれた。
案内してくれるフーガさんは、笑顔で「端からゆっくり歩いて行きますので、どこか気になる店があれば言って下さいね」と言ってくれる。
この人は姉と違ってどこまでも丁寧だ。
「『海神姫の涙』には緑色のガラス玉もあるんですか?」
海の色といえばなにも蒼だけではない。緑だって立派に海の色とされる。
そう思っての質問だったが、フーガさんの表情は微妙な色合いを帯びた。
「『海神姫の涙』と言われるのは蒼だけです。ですが緑に限らず、赤や黄色のガラス玉も人気ですよ」
確かに店先には様々な色ののガラス玉があった。
数は蒼が多いが、他の色は他の色でとても綺麗だ。
「あのガラス玉は、フーガさんの目の色みたいですね」
指差したのは雫の形にカットされた深い深い緑のガラス玉。
フーガさんの瞳のような――緑。
そして脳裏に浮かび上がった――緑。
「……カナエと、同じことを言うんですね」
ポツリと落とされた言葉は、切ないほどの響きを持っていた。
泣きそうな表情でペンダントを見つめるフーガさんに、俺は何も言えなかった。
「深緑の瞳――。彼女は私の目をそう称しました。そして、あのような深い緑色の『海神姫の涙』のペンダントを、私の輝きだと大切にしてくれました」
深緑の瞳。
叶さんのその表現にはしっくりときた。
鮮やかな緑ではなく深く落着きのある緑色は、深い森をイメージさせる。
だったら、リザさんの鮮やかな緑の瞳は若葉などといった新緑の色。明るく生気がみなぎる色だと、叶さんは言ったのかもしれない。
「すいません、こんな話をして。あなた方と会って、少し昔を思い出してしまいました。さあ、もっと他の店も見て見ましょう」
じっとフーガさんを見つめていた灯馬が心配していると感じたのか、彼は穏やかな笑みを向けて俺を促す。
――脳裏に蘇った深緑の輝きを振り捨てて、俺はフーガさんの後に続いた。
***
待ち合わせ場所の食堂では、すでに拓雅とリザさんが食事をはじめていた。
俺も勧められたスープとパンを頼んで席に着く。
「ここならゆっくり食事ができるでしょう?」
リザさんの言葉どおり、この食堂は込んではいるが通りにあった店に比べれば余裕があった。
祭典が催されている通りからは逸れた場所にあったので、客は地元の人が中心のようだ。
「灯馬はそれを買ったのか?」
大人しくシチューを食べていた拓雅が、俺の左手首を見て聞いてきた。
そこには蒼いガラス玉が麻の紐に何個か編みこまれているブレスレットタイプの『海神姫の涙』がある。丸く小さな『海神姫の涙』なので、値段が安かった。
それに対して、拓雅は鞄に細長い円柱の『海神姫の涙』をつけている。帰ったら携帯のストラップにするらしい。
他にも祭典の感想を報告しあっていると、リザさんが勝手に頼んだデザートが出てきた。
湯気を立てて目の前に置かれたソレに、俺と拓雅は固まった。
「ここでカナエは働いていたんですよ」
フーガさんは笑いを含ませた声で教えてくれた。
その言葉に、納得する。
デザートはぜんざいだったのだ。
ぜんざい。
この世界にも餅や小豆はあった。だが、ぜんざいにはお目にかかったことがない。
きっと叶さんが作り、この食堂のメニューに仲間入りしたのだろう。
「カナエは料理が得意だったからね。あの子ったらいろいろ作ってたから、ここ常連客の間ではカナエの料理のファンもいたのよ」
カラカラと笑ってリザさんはぜんざいをスプーンで食べていた。
恐るべし叶さん。
不本意にこの世界に落ちてきたわりに、馴染んでいる。
***
俺達はよくアーリシアに遊びに行くようになった。
リザさんの家の居間に、叶さんが消えたという場所とは別のところに、常に開いている『裂け目』があるらしく、そこからこちらに出てくる。
叶さんがこちらの世界に来て消えたという二つの場所には、『裂け目』はないと拓雅は言っていた。
一時的に生じた『裂け目』に叶さんは落ちたらしい。
これでは『裂け目』からの手がかりは得られない。
拓雅は落ち込んでいたが、叶さんを探し出して話を聞けば、なにかわかるかもしれないと意気込んでいた。
東間親子のことを知った人間は、一緒に跳べるかを試してみることになっている。
俺という成功例があってからは、必ず。
フーガさんとリザさんも同じように試された。
拓雅単独だったり、マスターと二人がかりだったり、俺も混じってみたりして。
だけど跳べなかった。
それを知った時、二人が少しだけ泣きそうな顔をしたのは気のせいではなかったと思う。
出会ってから二ヶ月ほど経ったが、フーガさんもリザさんには好意を持っている。
リザさんの一人娘のナタリーは、元気すぎて疲れるけど。
フーガさんは馬鹿丁寧すぎるけど、優しいし紳士だしいろいろ教えてくれる。
リザさんは適当だけど、話をすると楽しいし何かと可愛がってもらっている。
ナタリーは……ノーコメント。リザさんのミニアム版は、遠慮がなくて奔放すぎる。俺はもう「お馬さんごっこ」という名目で髪を掴まれ引きちぎられるのは勘弁だ。
しかしまあ、俺はあの家族が気に入った。
旦那さんには会ったことないけど、リザさんの夫をしているくらいだから好感の持てる人だろう。
――だからこそ迷う。
「……何か用?」
ぼんやりとしていたら、歳の離れた兄貴に声をかけられた。
そうだ。俺はリビングで昼飯を食べていたんだ。
前に座っていた兄貴は、既に食べ終わって熱くて渋いお茶を飲んでいた。
眼鏡の奥の目は、胡乱げ光っている。
「もしかして、小遣いねだってるのか?」
失礼な。こっちでも向こうでも、日雇いバイトをしてそれなりに余裕がある。
俺、別に金遣い荒くないし。
「あー、怒るな。冗談だ。お前がじっと見てくる時は、聞きたいことや頼みごとがある時だから、つい」
……さすが兄貴。
俺が生まれた時から知っているだけあるな。
確かに聞きたいことはある。
けれど、今はまだ聞けないことでもある。
「結婚式の日取りは決まったのかよ」
ひとまず話を変えるために、結婚式の話を出した。
兄貴は婚約者がいて、既にお互いの両親も賛成している。
そろそろ結婚式の日取りを決めようという段階になっていた。
「来年の二月か三月あたりにしようかって話しているけど……まだ決まってない」
兄貴の顔が幸せそうに緩んだ。
日取りはまだ決まっていなくても、着実に結婚の準備は進んでいるのだろう。
――ずきり、と胸が痛んだ。
俺は、兄貴からこの幸せを奪ってしまうかもしれない。
けれど早く決めなくてはいけない。
もう、時間はあまり残されていないのだから。
***
「トウマあそぼうー」
足にタックルされた。リザさんの子供のナタリーだ。
五歳のナタリーは元気いっぱいで、俺達が来るとここぞとばかりに遊んでとアピールする。
「後でな。今日はフーガさんに用があるんだ」
ぷくっと膨れたナタリーの髪をわしゃわしゃと撫でてから、俺はすぐにその場を立ち去った。
後ろでは、次にナタリーに捕まった拓雅が「あそんで!」としがみつかれていたが、見捨てた。
***
俺が居間から出たところで、ちょうどリザさんの家にやって来たばかりフーガさんに会った。
挨拶も抜きに「叶さんの部屋を見せてください」と頭を下げた俺にフーガさんは驚いたようだが、首をかしげながらも二階にある一室に通してくれた。
一度は見せてもらったことがあるけど、どうしても今必要だった。
「どうぞ。入ってください」
そう言った横顔は、少しぎこちなかった。
愛しさや切なさや悲しさ。
あらゆる感情が入り混じる複雑に強張った横顔。
それを俺は静かに観察していた。
フーガさんが開いた扉の中には、丁寧に掃除がされた部屋があった。
机の上の本やノートは整頓され、棚の置物も埃が払われている。
主のいない部屋はよそよそしかった。
けれど、部屋にあるものは叶さんが使っていた当時と同じままにされているらしい。
「姉さんが『叶は私の家族だったんだから、残しておくの』と言って、掃除をする以外はそのままですよ」
――『家族』。
叶さんは、この家で愛されていたのだろう。
愛しそうに寂しそうに部屋を見ているフーガさんの横顔を見れば、彼もまた叶さんを大切に思っていたとわかった。
「これがカナエがディルレイラ語を勉強していたノートと、私に日本語を教えてくれた時にいろいろまとめていたノートです」
そっと机の引き出しから二冊の使い古されたノートを取り出した。
手渡されたので中を見てみると、ディルレイラ語の文字を繰り返し書いている。もう一冊は日本語の五十音や「りんご」という文字ともにイラスト付きで日本語を書いていたりしている。
「……熱心ですね」
ディルレイラ語の勉強もそうだが、フーガさんに日本語を教えるのも力が入っている。
「カナエに教えたのがきっかけで、私は教師になったんですよ。最初は義兄の貿易の手伝いをと思っていたんですが、教えることのほうが楽しくて」
やわらかく笑うフーガさんは、街で語学を教える教師をしている。
子供達に教えるというより、大人相手が中心だという。
貿易の街アーリシアでは、ディルレイラ語ができるようになりたい人や、他言語を理解したいディルレリラ人が多くいる。
彼らを相手に、フーガさんは休日や夕方から夜間にかけての仕事が多いらしい。
まあ、この人は「教師」って感じだよな。
「そういえば、カナエはディルレイラ語で話していました。でも本人は日本語でしゃべっているし、私達の言葉も日本語に聞こえるといっていたんですが、理由は分かりますか」
ああ、それは俺も同じだ。
俺は日本語で話しているし、フーガさん達の言葉も日本語に聞こえる。
「拓雅の話では、『裂け目』を通った時点で勝手に変換されるらしいですよ。理由は不明だって言ってました」
理由は不明とは、なんとも適当だ。
しかしまあ、わからないものは仕方がないので気にしないことにしている。
そう言うと、フーガさんは「確かに」と笑ってノートを元の場所に戻した。
そしてフーガさんはそっとに目を閉じる。
何かに想いをはせるかのように、静かに時を止める。
じわりと胸を締め付けられた。
思わず言葉がこぼれる。
「叶さんは、フーガさんの恋人だったんですか?」
再び現れた深い緑の瞳が、揺れた。
「ええ。好きでした。カナエも、好きだと言ってくれました」
けれどカナエは帰ってしまいました――と、フーガさんは囁いた。
この人は、本当に叶さんのことが好きだったのだろう。
今でもなお好きなのだろう。
叶さんもまた、今もフーガさんを想っているかもしれない。
「――会いたいですか」
そして俺はついに尋ねた。
迷って悩んだ、その言葉を。
「叶さんに、会いたいですか」
深い緑の瞳が、俺を映した。
その中で、俺の顔は泣きそうに歪んでいる。
泣きそうなのはフーガさんじゃない、俺だ。
あれから叶さんが消えてから、六年経っている。
六年。長い月日だ。
人の想いも変わるには、充分すぎる時間。
「会いたいです」
はっきり言葉をつむいだフーガさんに、ほっとしたのか悔しいのか。
けれどその悲しいほど切実な願いは、俺の決断を後押しした。
「――会いたいんだ」
ただ一心に叶さんに向けられているように思えた、その言葉に。
「どうしてそんなこと、聞くんですか」
かすれた声に、俺は笑う。
痛む胸も罪悪感も全て押し込めて笑う。
「限りなくゼロに近い可能性に、かけますか?」
それが俺の大切なものを壊すことになっても。
***
フーガさんの答えを聞いた俺は、ナタリーと遊んでいた拓雅をせっついて帰ってきた。
帰ってくるなり携帯で電話をしだした俺に、拓雅は疑問を投げかけたが取り合う暇がない。
ある人に連絡をつけると、俺は無言で喫茶店から出て行った。
後で拓雅に噛みつかれることは、確実だろうな。
***
家に入ると、リビングから声がした。
見るとテーブルに雑誌やパンフレットを広げた兄貴とその婚約者のカエ姉が、のどかに紅茶を飲んで話しているようだ。
「兄貴」
ただいまも言わずに声をかけた。
ずかずかと近寄って、テーブルの上に広げられたのが結婚式と新婚旅行の参考資料だと知れた。
「母さんは?」
わざわざリビングで話をしているということは、母さんもそこに参加するためだろう。
カエ姉と母さん、気が合ってるし。
「ピンチヒッターでパート」
今日は休みだったはずだが、誰かの代わりに出勤したのか。
うん、それは都合がいい。
母さんには聞かれちゃ困る話題だ。
「いきなり『カエ姉はいるか』って電話をしてきたと思ったら、何だよ?」
不可解な弟に眉をひそめる兄貴。
その横で、カエ姉が「あたしに用? なに?」とニコニコと聞いてきた。
「単刀直入に言う」
立ったまま、俺は抑えた声を心掛けた。
「カエ姉はフーガさんに会いたいか?」
見事なくらい時間が止まった。
笑顔のまま凍りついたカエ姉。
カップを手に取ろうとしたまま停止した兄貴。
そんな二人に、怯んだ。
それでもつむいでしまった言葉は取り消せないし、取り消さない。
「カエ姉――楠木叶さん。あなたはフーガ・クロスレットにもう一度会いたいか」
かつてアーリシアにいた人。
リザさんの家で暮らした人。
ルーシーさんの食堂で働いていた人。
――フーガさんの恋人だった人。
「どうして」
衝動的にこぼれたであろうカエ姉の言葉に、少し後ろめたさを感じた。
フーガさんに会う前から俺はあの人を知っていた。
それどころか、拓雅に出会う前からもう一つの世界のことも知っていた。
六年前、カエ姉と兄貴が付き合っていた頃、小学生だった俺はカエ姉が大好きだった。
だからその日も、家にやって来たカエ姉と話したくて兄貴の部屋に入ろうとした。
だけど、入れなかった。
そこではカエ姉が別れ話をしていたから。
馬鹿みたいなおとぎ話。
そんなものを真剣に語るカエ姉。
そしてそれを受け入れた兄貴。
ディルレイラ。
アーリシア。
フーガ・クロスレット。
その三つの言葉は、あの時記憶に刻まれた。
そして拓雅との出会い。
俺に扉を開いたもう一つの世界。
カエ姉が話していたディルレイラ。
会いたいと思った。
かつてカエ姉が兄貴を振ってまで選んだ男に。
――そして願いは叶えられた。
だから俺は、カエ姉に扉を示さなくてはいけない。
それが扉が開かれた者の義務だと思うから。
「限りなくゼロに近い可能性に、かける?」
蒼白になった兄貴は無理やり無視して、カエ姉にフーガさんと同じ問いかけをした。
兄貴と別れてから、カエ姉が家に来ることは一度もなかった。
当たり前だ。振った男の家に来るわけがない。
けれど一年前、社会人になった兄貴は偶然カエ姉と再会して、いつの間にか寄りを戻して、さらには婚約した。
カエ姉はもう一度、兄貴を選んだ。
「俺は条件付きだけど、いつでもアーリシアに行ける。フーガさんに会える。その奇跡の恩恵を受けている」
まっすぐにカエ姉を見つめた。
兄貴とカエ姉の幸せを潰して、新たな可能性をぶら下げたのは俺だ。
この目を、逸らすなんてできない。
続いて拓雅のことやマスターのことを簡単に説明した。
自由に二つの世界を行き来できる人間がいることを聞いて、カエ姉の両目には傷つけられたかのよう見開かれた。
「今まで奇跡は俺にしか起きなかった。でも、俺が成功例だ。可能性はゼロじゃない。俺以外にも、扉は開かれるかもしれない」
残酷な、言葉だろう。
血を吐くほど願ったであろうことを、自分のすぐそばで簡単に実現させる人間がいた。
関係ない俺まで、そちら側にいた。
「カエ姉はどうする?」
フーガさんに会える可能性にかけるか、兄貴を選ぶか。
選択肢は出した。
選ぶのはカエ姉だ。カエ姉だけが選べる。
その判断を待った。
「――『海神姫の涙』」
つむがれた言葉。
その視線の先。
俺の左腕の、『海神姫の涙』が編みこまれたブレスレット。
震える手でカエ姉は胸元のペンダントヘッドを握り締める。
白い貝殻のペンダント。
けれど俺は知っている。
少し前まで、そこにあったのは深緑のペンダント。
『海神姫の涙』とともに愛される、アーリシアのガラス玉。
「あた――あたしは晴彦と結婚するの!」
ペンダントを手放したのが、その証。
それでもカエ姉はクセのようにきつくきつくペンダントヘッドを握りしめる。
「あたしは、あの時フーガを選んだ。でも今は、晴彦と一緒に生きることを選んだのよ」
カエ姉はそう言ってくれた。
弟としては、嬉しい言葉だ。
動揺の裏返しの強がりだとしても。
六年の月日をかけて、カエ姉は兄貴を選んでくれた。
しかしそれはフーガさんにはもう二度と会えないという前提での話だ。
もし会える可能性があるのなら、その選択が変わってもおかしくはない。
「じゃあ、可能性にはかけない?」
意地悪な問いかけだという自覚はある。
ゼロに近い可能性にかけたとしても、叶わなくて当たり前なのだ。
けれど再びフーガさんを選べば、兄貴との婚約話は消えてしまうだろう。
――会えるなら会いたい。
切実に望んでいるだろう。
――晴彦と一緒にいたい。
胸の中で叫んでいるだろう。
それでも選べるのは一つだけ。
「……それは、決まっているだろう」
低い声で言ったのは――兄貴だった。
カエ姉に視線を合わせ、逸らすことなく言い切った。
「可能性があるならかけろ」
喘ぐようにカエ姉は唇をわななかせる。
言いたいことはあるのに、言葉にできないといった感じだ。
「『もしもあの時可能性にかけていたら、会えたかもしれない』なんて思われるのはごめんだ」
そして数拍置いて、さらに言葉を重ねる。
「会えても会えなくても、試してみてから決めろ」
「そんなの、二人に対して失礼じゃない……!」
やっとカエ姉は叫んだ。
気持ちは分からないではない。
むしろ、兄貴の物言いのほうがお人好しすぎる気がする。
「失礼だとしても、『もしも』なんて思われるのは我慢できない。『もしも』を解消してからお前が決めろ」
兄貴はテーブルの上の雑誌やパンフレットを片付け始めた。
一つにまとめて、端に置く。
「――こんな状態で結婚したって、うれしくない」
言い放たれた言葉は、固かった。
***
「どういうことだよ!」
カエ姉と兄貴と一緒に喫茶店に戻ってくるなり、拓雅に襟首を掴まれた。
後ろでマスターが困った笑みを浮かべる。
マスターは俺が楠木叶を知っていることを知っていた。
マスターのネットワークなら、すぐに楠木叶の居場所を突き止めただろう。
こちらとあちらに落ちた人間を探すため、マスターは大規模なネットワークを持っている。
地味にマスターをしているが、奥さんは大企業の女社長だ。別居しているけど、ラブラブだと拓雅が言っていた。
まあ、そんな奥さんを持つマスターは金もコネもある。
あちらの世界では大貴族にも顔が利くたりと、けっこう大物だったりする。
なのに二ヶ月あまり黙っていた。黙っていてくれた。
俺の行動を見て、カエ姉にフーガさんのことを話すと判断し、拓雅にも説明することは推測していた。
だがまあ、拓雅にとってはキレるに値することだったようだ。
「貴様、俺に黙ってこそこそと! 最初っからディルレイラのことを知ってたんなら知ってたって言えよ!」
貴様って。
……だいぶ怒っているな。
「だいたい貴様は――!」
さらに言い募ろうとしたところで、拓雅はやっと俺の背後にいる兄貴とカエ姉に気がついたようだ。
数秒の沈黙で彼らが誰だか飲み込み、壮絶に睨みつけられた。
「カエ姉もフーガさんも、可能性にかけたいって言うから可能性にかけてみよう」
無理に笑顔を浮かべて言ったのに、足を思いっきり踏まれた。
しかしカエ姉達に顔を向けた時には、拓雅は好青年な笑みを浮かべて自己紹介をしていた。
……ホント、外面がいいよな。
***
兄貴は店に残して、俺と拓雅とマスター、そしてカエ姉で扉のある部屋に向かった。
一応、全パターンを試すつもりだ。
マスターと拓雅一人づつと一緒だったり、二人同時にだったり。俺が混じったパターンでも試してみる。
……。
…………。
………………。
けれど。
一度も成功しないまま時間だけが過ぎていく。
そして最後のパターンだ。
俺と拓雅とカエ姉の組み合わせで扉に入ってみた。
***
そして俺の目の前には固い表情のフーガさん。
深い緑の瞳が捉えているのは、俺と拓雅だけだ。
「無理でしたね」
無理に笑みを浮かべたフーガさんに、合わせる顔なんてなかった。
***
「カエ姉」
戻ってきた俺は、扉の前で力なく座り込むカエ姉に声をかけた。
びくりと肩が揺れ、そして言葉がつむがれる。
「ごめん、今は……灯馬君の顔、見たくない」
傷つくより何より、罪悪感に満たされる。
義務だと思ってカエ姉に可能性を示したけれど、絶望する彼女を見ると、自分がどれほど残酷なことをしたか改めて認識した。
「ひとりにして……!」
ナイフで斬りつけられた気分だ。
どうしていいかわからなくて、カエ姉の言葉通りにここから立ち去った。
***
ぼんやりとしたまま、兄貴がいる喫茶店に足を運ぶ。
けれどそこでみた兄貴の背中には、かける言葉なんて見つからなかった。
どうすれば、よかったんだろう。
これが最善だと思った。
どういう結果になろうとも、可能性を知らないままでいるよりは良いと思った。
でも結果はこれだ。
みんなが苦しんでいる。
「灯馬」
拓雅に肩を掴まれた。
深海の瞳。
静けさの中に、あらゆる感情を眠らせる瞳。
「これが現実だ」
冷たい物言いだった。
それでも、嫌な気はしない。
拓雅は最初からわかっていた。
恩恵を受けられた者と受けられなかった者の間にある、絶対的な溝。
拓雅はずっとこんな苦しみの中で足掻いていたんだ。
自分だけが自由に行き来でき、誰も救えない状態に苛立っていた。
わかっているつもりで、わかっていなかった。
「それでも俺は、諦めない」
それが、拓雅の答えだ。
でも俺は何も言えなかった。
時間を巻き戻したって、俺は同じ決意をして可能性を示す。
今ある幸せを潰してでも、未来への鍵を指し示す。
それが分かっているから、何も言う資格はなかった。