永遠は終わりを待つ

最終更新:2008-11-08 〜 02-15

漂う二人は、永遠に怯え終わりを恐れる。

目次

1 】 【 2 】 【 3 】 【 4 】 【 5 】 【 6 】 【 7

 1

 森の奥深くには、捨てられた屋敷がある。かつては別荘であったらしいその屋敷には、長いこと人が寄り付かなかった。廃墟と化した屋敷の不気味さと、不便な場所にあったということが大きいだろうが、屋敷に近い町の噂のせいでもある。
『森の奥の屋敷には女がいて、迷い込んだ人間を屋敷に引き入れ生気を取られ死んでしまう』
 事実、女を見たという目撃証言は何件もあった。窓にすうっと灯りが現れると、それに照らされ白い輪郭が浮かび上がり、奇妙に赤い唇が緩やかに弧を描き、ほっそりとした手が優しげに手招きをするという。目撃証言が残るくらいなので、招きに応じず逃げ出すことも可能だ。逃げ出さなかった人物は帰ってくることはないので、どうなったか知れない。
 ともかく、森の奥の屋敷に町の人間は近づかなかったし、旅人も警告を受けて避けた。森の奥へ行こうにも、森は深くたどり着くだけでも危険だ。まして、そこに屋敷以外にはなにもない。好き好んで行ったところで、なんら利益はなかった。せいぜいが、度胸試しに足を踏み入れる人間がチラホラと現れる程度だった。

 そんな屋敷の前に、一人の男が立っていた。昼間とはいえ、木々に覆われ薄暗い。しかし男は、不安そうな顔一つ見せず――むしろ浮き立つ心を静められないといったような笑いがにじみ出る表情で、立っていた。年のころは二十代後半か三十代前半といったところで、褐色の肌に黒々とした髪と目を持っていた。背は高いが体が薄いので、ヒョロっとした印象を与える。
 男はじっと屋敷を眺めた。窓にすうっと灯りが現れるのを待っているらしかった。しかし灯りは現れない。そのうち男は飽きてきたのか、勝手に玄関へと向かい扉を押し開けた。
「こんばんはー」
 場違いに陽気な大声。しかしそれは虚しく闇に吸い込まれる。男の表情に、初めて不安が浮かんだ。恐る恐るといったように、真っ暗な屋敷の中に足を踏み入れ辺りを見回す。
 誰かを探すように視線を彷徨わせる男は、自分の姿さえ見えないはずの闇の中、なんら困った様子もなかった。足取りは重いが、目的を持って進んでいる。まるで屋敷の構造は熟知しているといった風であった。
 やがて男は一つの部屋の前で立ち止まる。少しためらってから、ガチャリと扉を開いた。
 ――そこには女がいた。廃墟の部屋にしては以外にもきれいに整えられたベットの上に、女は横たわっていた。闇に溶け込む黒いドレスを身に着けたまま、つややかな金髪を投げ出し瞳を閉じている。
 男は安堵の息を吐いた。そして次に、不快そうに眉を寄せた。つかつかと眠る女に近づくと、その耳元に唇を寄せる。
「起きないと、またどっかに行っちゃうよ」
 ピクリと、女のまつげが動いた。紅も刷いていないのに赤い唇が、キュっと引き結ばれる。
「起きたなら起きてよ」
 女の眉が歪む。フイっと寝返りを打たれ、背を向けられた。
「……からかって悪かった。起きてほしいです」
 しばらく迷ったように女がかすかに動いたが、結局男に背を向けたまま起き上がった。
「顔も、見せてほしいな……」
 下手に出た声で、男は頼んでみた。すると女はしぶしぶと振り返る。本当にしぶしぶといった感じに、その表情は不服そうだ。
「ただいま。我が愛しの妻殿」
 女の頬を撫で、男はやわらかく微笑んだ。

 町の人間が恐れる屋敷の女には、夫がいた。ふらふらと放浪してめったに屋敷には帰ってこないため、夫の目撃証言は全くといっていいほどなかった。しかし女には夫がいて、ここで暮らしていることは紛れもない事実だ。
「何をしに来たのですか」
 真っ暗な屋敷の中で、一組の夫婦が対面する。どちらも灯りを付ける様子もなく、暗闇の中でも相手がはっきり見えるといったかのようにじっと視線を絡ませる。
「何をって……家に帰ってきただけだよ?」
 突き放す女に、男はかわいらしく首をかしげてみた。が、それも女の冷ややかな視線にすぐにやめた。
「妻殿に会いに来ただけだよ。全然帰ってなかったし、愛しの人が浮気してないか心配でさ」
「虫唾が走るようなことを言わないで下さい」
 本当に嫌そうに唇を歪ませる女に、男は苦笑した。
「相変わらず君は人間嫌いだね」
 当たり前だとでも言うように、女は軽く男を睨んだ。

 屋敷に住む夫婦は、遠い昔に死んでいる。二人して死んで、何故か幽霊としてこの世に留まることになった不可思議な夫婦だ。最初こそ二人は戸惑ったが、男は状況に慣れるとふらふらと人間の世界を漂い始めた。女は生きた人間を見るのが嫌で、偶然見つけた森の中の廃墟に身を寄せることにした。
 町の噂にもなっている女は確かにこの女だったが、ひとつ違うことがある。女は人間の生気なんて吸わない。吸おうと思えば吸えるが、必要はなかったし血肉を持った人間が大嫌いだったからだ。やってきた人間を手招きするのは、怖がらせ二度と近寄らせないための対策だった。
 ほんの数回招きに応じた人間はいたが、そのまま放置した。意識して女が姿を現さない限り、めったなことで人間に見つかることはない。なので屋敷に足を踏み入れても誰もいない真っ暗な屋敷を歩き回り、結局誰も見つけられずに帰っていくのだ。招きに応じた人間が帰ってこないという噂は、たんに森でさまよい待ちに帰れず餓死でもしたのだろう。または町にたどり着いてその話をしても、虚勢を張っていると思われ信じてもらえなかったのかもしれない。

 男は不機嫌な妻に花がほころぶような微笑を向け、抱きしめた。女は少し手を彷徨わせたが、顔を伏せて最終的には男を抱きしめ返した。
「屋敷に入っても、君が姿を見せなかったから消えてしまったかと思ったよ」
「……眠っていたのです」
 幽霊に眠りは必要ない。眠るようにじっとしていることはあるが、気配がすればすぐに気がついて起き上がる。しかし男が部屋に入ってきても女は起き上がらなかった。理由は簡単だ。長らく帰らなかった夫を無視しただけ。それでも不安そうな気配を見せた男に罪悪感を感じたのか、さらにぎゅっと男を抱きしめる。
 二人は幽霊だ。なぜそうなったかも分らない。それはつまり、いつ消えたっておかしくはないのだ。
 久しぶりに帰宅した男は、姿を現さなかった妻が一人で消えたかもしれないと不安になった。一人で屋敷にあり続けた女は、長らく帰宅しない夫がすでに消えてしまったのかもしれないと怯えた。
 しかし男は屋敷に留まらない。女も男について行こうとはしない。お互いが一人残されることをひどく恐れながら、決して自分の意思を曲げることはしなかった。
 もともと親が調えた縁談で、結婚式の日取りが決まってから顔を合わせたくらいだ。二人の間に夫婦の情はあっても愛はない。それは今なお変わらない。二人の間に愛などない。あるのはただ、唯一の同類だという事実。他の幽霊には会ったこともなければ見かけたこともなく、この世で自分を認識してくれるのは、お互いだけだった。だから二人は寄り添う。夫婦というより、同類として寄り添う。
「話を聞かせてください」
 顔を上げないまませがむ女の髪を撫でながら、男は外で見聞きした話を唇に乗せた。ただ、声が聞きたくて。ただ、話がしたくて。ただ、『自分』の存在を確かめたくて。

 2

 かつて女は生きていた。良家に生まれ、何の不自由もなく育ち、親の言われるままに結婚をし、静かだが穏やかな生活を送り、子供を生む前に死んだ。どこにでも転がっていそうな人生を、女は生きた。
 珍しいことが女の身に降りかかったのは死んでしまってからだ。何故か幽霊となってこの世に留まった。一緒に死んだ夫もそれは同様だ。理由は分からない。分からないからどうすることもできない。そして夫は好奇心のままに世の中を漂い、女は森の奥の廃墟に棲みついた。
 恐れることは、自分を残して夫ひとりが消えてしまうこと。もしくは、夫を残して自分ひとりが消えてしまうこと。お互いの他に同じような幽霊に出会ったことはなかったから、残し残されるのは嫌だった。一人ぼっちで漂い続けるなんて、考えるだけで叫びだしそうになる。
 それでも気ままに世間を漂う夫に寄り添う気にはなれなかったし、相手も女にそれを求めはしなかった。求め合い必要としていても、心は決して交わってはいない。情はあっても愛はないから、お互い自分の望むままにしか漂うことができなかった。
 一人きりの屋敷で、女は無為に時を消費し続けた。食べることも寝ることも必要としない。死んだ身の上としては人の世界に交わるわけにはいかないし、そもそも女は血肉を持った人間が嫌いだった。自分が死んでいることを改めて思い知らせる存在など、見たくもない。
 女はただただ屋敷の中でぼやりと漂い、時折屋敷へと訪れる人間を脅かして遠ざける以外には何もなかった。唯一女が受け入れる夫もほとんど屋敷に居つかないのだから、女はずっとベットの上でじっと目を閉じていた。だからといって眠れるわけでも夢を見るわけでもないので、本当にじっとしているだけだ。

 けれど今は、久しぶりに夫が帰ってきていた。ただじっとしていただけの時間が、夫が傍にいることで動き出す。外で見聞きした話を聞いたり、他愛もない言葉を交わしたり。温もりも何もないけれど、抱きしめあって二人してベットの上でぼんやりとすることもあった。
 気まぐれを起こせばいつ屋敷から出て行くかも分らない夫だが、今は確かにここにいる。女を見て、二人で話をすることができる。それがどれほど幸せなことか知れない。この世に女のことを認めてくれるのは、夫だけだった。意識をすれば人間にも姿を見せることができるといっても、所詮は幽霊。相容れない。恐れられたり好奇心の対象にされるだけ。幽霊としてひと括りにされ、女が誰であるかなんて気にされはしないだろう。
 だからこそ女は、夫が屋敷にいる時間が好きだった。自分が存在していることを確信できる唯一の瞬間であるからこそ、好きだった。
 しかし煩わしいこともある。ふと思い出したかのように、けれど頻繁に夫はこんなことを聞くのだ。
「君は自分が死んだ理由を覚えている?」
 死んだ理由など思い出したくもない。痛い記憶だろう。苦しい記憶だろう。そんなものを覚えていたところで生き返るわけでもないし、覚えているだけ無駄だ。
「覚えていません」
 女の返答はいつも変わらない。そして夫は、いつも透明な笑顔で「そうか」と言う。夫が死んだ理由を覚えていることは知っているが、彼が女にそれを口にしたことはない。思い出してほしいのだろうか。それとも、思い出してほしくないから何度も確認をするのだろうか。分らない。女には夫の気持ちなど、生きているころから分らなかった。

 夫は今日もまた同じ質問をする。そして女も同じ答えを返す。これからもずっと、そんなやり取りが続いていくのだろう。どちらかが消えるその時まで。

 3

 男には妻がいた。死んで幽霊になってしまう前から、彼女は男の妻で、男は彼女の夫だった。仲睦まじいとは言えないが、死ぬまではそれなりに順調な夫婦生活をずっと送っていた。幽霊になってからは男は一人で人の世を漂い、妻は廃墟で身を潜めていた。そのため共にいるのは男の気まぐれで会いにい行った時だけだったが、会えば会えばで穏やかな時間が生まれる。

 そして久しぶりに妻に会いに来た男は、自分の腕の中でぼんやりと窓の外を眺める妻の金の髪に指を絡めていた。実際に肉体があるわけではないが、あたかも肉体があるかのようにお互いに触れることができた。温もりを感じることはないが、記憶が互いの感触を覚えているのだろうか。
 妻は生きていた頃から、口数も表情も少なかった。けれど嫌われているというより、もともとの性格のようだった。しかし幽霊になってからは不満そうな顔ながらも素直に表に出し、甘えるかのようにすり寄ってくるようになった。
 寂しい、のだろう。いつ終わるとも知れない孤独の中で、抱きしめてやれるのは男だけだ。なのに男は、ほとんど傍にはいない。ふらふらと屋敷を飛び出し、ほんのひと時戻ってくる。そして妻も、ずっと傍にいるために男についてくるようなことはなかった。
 人間が嫌い。それが妻の口癖だ。だからこの屋敷に留まり続け、時折現れる人間を脅し遠ざける。――けれど、本当にそれだけの理由なのだろうか。男は思う。男が一人漂う理由と同じ理由で、妻は一人屋敷に留まるのではないのだろうか。

 妻は生前の記憶から、ある部分がすっぽり抜け落ちている。妻自身は死んだ時の記憶だけがないと思っているようだが、本当はもっと根本的なところが抜け落ちていた。
 それを、思い出すべきなのかはわからない。思い出せば、何が起こるかわからない。そもそも男達が幽霊となってこの世に留まることの理由すら分からないのだ。ならば抜け落ちた記憶が戻れば、妻は消えてしまう可能性もないとは言えないのだ。
「君は自分が死んだ理由を覚えている?」
 それでも繰り返し尋ねてしまうのは何故だろう。その度に、妻は苦々しい顔で「覚えていません」と返答する。男は、ほっとするような、もどかしいような気分で笑うしかなかった。

 男は妻を愛してはいない。だからといって、他の誰かを愛したわけでもない。
 妻は夫を愛してはいない。だからといって、誰も愛さなかったわけではない。

 彼女は一途に恋してた。彼女は静かに愛してた。
 たとえ妻が忘れていたとしても、男はそれを覚えている。

 4

 それはよくある政略結婚だった。家柄からそうなることはお互いわかっていたことで、特別に不満はない。男は軽薄な雰囲気を持っていたが割と真面目で妻を大切にしたし、女は無愛想ではあったが美しく、夫をさり気なく立てて寄り添っていた。
 二人の間に愛はなくとも、夫婦の情はあったし大切だったことは確かで、冷め切った関係ではないはずだった。

「私が悪いのです」
 けれど女は、溢れ出る激情を無理やり押し込めた歪んだ表情で言う。
「私が勝手に恋をしたのです。あの方には何の責任もございません」
 自分の妻と使用人の噂を男が耳にしたのは、結婚してから三年経った頃。もちろん不愉快だった。男自身、結婚してから一度も外で他の女と戯れたことがなかったとは言えないが、だからといって見過ごせもしなかった。
 しかし男は思い直して少し二人を観察してみることにした。噂は使用人達の間での密やかなものだったし、もしかしたら意地の悪い嘘かもしれないと考えたためだ。
 ――けれど、分かったことは二人が事実想い合っているということだ。
 それはとても秘めやかな恋。二人は視線で、空気で、お互いが想い合っていることを知っている。同時に、自分達の身分を十分すぎるほど理解していて、触れ合うどころか二人きりになることもないようだった。許されぬ想いを、ただ自分の胸の内だけに収めようとする、静かで虚しい恋。
 男もなんとなく責める気は失せ、相手の使用人を解雇するだけに留めた。その際にも他の家で働けるよう紹介状を用意して、路頭に迷うようなことはないようにと心を砕いた。これも、二人が会えなくなればその想いはいつしか消えてしまうだろうと――ある種の熱病のようなものだと思ったからだ。
 しかしそれは違った。いつしか治る病どころか、強く静かに燃える炎をその胸に宿していた。二年も経たぬうちに偶然再会してしまった二人は、同じ屋敷にいた頃にはついに踏み越えることのなかった一線を越え、その炎に身をゆだねた。
 男が女の裏切りを知った時、すでに女も使用人の恋人もこの世にいなかった。犯した罪に――それとも二度と離れたくないという想いからか――二人はきつく抱き合ったまま、海に身を投げ出し命の灯を消した。
 この身分違いの心中は世間にも知られることとなり、男に哀れみや嘲笑の目が向けられた。だがそのどれもを、男は軽やかに受け流す。周囲が別の物事に関心を寄せ心中について触れる者も少なくなった頃、男は流行り病を得て死んだ。再び心中事件と男の死を結びつけた噂がささやかれたが、それもすぐに忘れられてしまった。

 そう、男は一人で死んだ。女が共に死んだのは、男ではなく使用人の恋人だ。なのに何故、女と共にこの世に留まることになったのが彼でなかったのだろうか。何故、女は自分が愛した恋人のことを忘れてしまったのだろうか。男は幾度となく考えたが、理由など見つかるはずもなかったし、いつしか考えることもやめた。
 男はここにいて、女もまたここにいる。それだけが真実で、それだけが全てだった。

 全ては過去。はるか遠い記憶。人間だった頃の三十年にも満たない記憶。永遠に続くかもしれない永い永い時間の中の、些細な思い出。――ただ、それだけだ。

 5

 半年経つと男はフラリと出て行った。屋敷に一ヶ月も留まらないこともあれば、一年以上居ることもある。けれどやはり、だいたいは半年くらいで男は出て行ってしまう。
 再び一人きりになってしまった女は、ベットの上で膝を抱えた。一番つらいのは男が去った直後だ。呼びかければ言葉を返してくれる人がいた時間を過ごしてしまえば、慣れたはずの孤独も苦痛になる。思い出したくもない日々を思い出してしまう。――誰にも気づかれることなく、永遠にあり続けなければならないのかと思った、あの日々を。

 ある日、気がつくと死んだはずの女は公園に居た。たった一人でそこに居た。一緒に死んだはずの男は傍らに居なかった。
 けれど女は待った。男はここに来てくれるはずだと核心めいたものがあったからだ。はっきりとは覚えていなかったが、ここで待ち合わせる約束をした気がする。だから男はきっとここに来る。そう思うと動くことが出来なくなった。もし少し外に出た隙に男が来れば、女がいないと思って二度と訪れてはくれない気がしたからだ。
 公園を行き交う人々は、誰も女がそこに居ることに気がつかない。貴族らしいカップルが楽しげに歩いている。子供が使用人を振り回しながら、元気に走り回っている。たくさんの人。たくさんの笑顔。女が声をかけても、その体に触れても、気づかないまま優しい時間を過ごしている。同じ空間に居るはずなのに、女だけが無視され切り取られる日々。
 女は顔を伏せた。膝を抱えて噴水の脇に座り込んだ。男がやって来るまで、この公園に溢れる時間を自ら閉ざしてしまおうかというように、全てを拒絶して声がかけられるのを待った。ただ、待ち続けていた。

 男が現れたのは、季節が二巡りはした後だった。
 姿が見えた途端、女は男へと駆け寄り抱きつく。涙など出ないはずなのに、視界が歪んだ。しがみ付いたまま、今までどこに行っていたのかと詰ると、男は戸惑ったような表情で女を見下ろす。癪に障ったが、それよりも自分を見て、言葉を聞いて返してくれる存在がいることの方が嬉しかった。男がここに来てくれたことが嬉しかった。
 それからは二人でフラフラと目的もなく漂った。けれど女は、自分が人の世界を漂うことへ嫌悪を抱いていることに気がついて、森の廃墟に身を寄せることにした。男と離れることは怖かった。しかし、ここに帰ってくると言った男が約束してくれたから、耐えられる。
 一人きりで、誰も自分に気づかないまま永遠を過ごすのかと思った日々。希望は、約束したはずの男がやって来ることだけだった。そして男は来た。再び離れても約束を残してくれた。どんなに気紛れでも、男は帰ってきてくれた。

 女は待つ。ここに帰ってきてくれる男を待つ。最初に約束をした存在を忘れたまま、女は男だけを待っていた。

 6

 ふと一人の少女が目に付いた。人が溢れかえるホームの隅で、ひっそりと立っている。大きなバックを抱きしめて視線をつま先に落とす少女は、喧騒の中では誰に目にも留まらないような儚さがあった。
 ――見覚えがある風景に、男は遠い記憶を掘り起こす。

 流行り病で死んだはずの男は、気が付くとベットに横たわる自分を見下ろしていた。生気を失い抜け殻になった自分自身の体に、年老いた母が泣き縋っている。視線を移動させれば、父や使用人達も目に涙を滲ませ、男の死を悲しんでいた。
 ああ、俺は死んだのか。男は妙に冷静に悟り、ただ静かに自分の死を悼んでくれる人々を見ていた。けれど、半年もすれば徐々に男の死から立ち直り自分の居ない世界を生き始めた人々を見ることが虚しくて、フラリと町に出た。
 自分が何故こんな風になったか考えることが面倒だった。不思議ではあったが、そのうち自分は消えるだろうと思うと、今はただこの状況を楽しんだほうが気が楽だとフラフラと人々を観察した。
 そして公園に行った時、男はかつて妻だった女を見つけた。噴水の脇で膝を抱え顔を伏せ、穏やかな風景から一人だけ切り取られた存在を見つけた。自分を裏切り、恋人と共に心中した女だ。けれどそんな女を憎いとは思っていなかった。別に愛していたわけではない。女が他の誰かを愛していてもかまわない。むしろ、それ程の愛を捧げられるのが羨ましかった。
 だから、男は女に声をかけた。同じように幽霊となっていたかつての妻に、手を差し伸べた。すると顔を上げた女は、驚きを浮かべた後、今まで見たことのない表情で男に抱き付いてきた。正直、驚いた。生きていた頃、女がこんな風に抱きついてくることはなかった。しかも切れ切れに男を詰る女の言葉から、その記憶から共に死んだ恋人の存在が抜け落ちていることに気が付いた。
 しかし男は何も告げることはせず、ただ「ごめん」と言って女を抱き締める。忘れてしまったのなら、きっとその方が良かったということなのだろう。
 それから二人で人の世を漂ったが、女は生きている人間を見るのを妙に嫌った。きっと、いつ終わるとも知れぬ深い孤独に一人きりで震えていたのを思い出してしまうのだろう。だから二人で人の来ない深い森を漂い、廃墟となった屋敷を見つけてそこに暮らすことにした。
 男がそれに飽きたのは、廃墟に棲み付いてから一年も経たない内だった。女にそのことを告げると、意外にもあっさり男が屋敷を出て行くことを許してくれた。約束を守ってくれるなら好きにしろと言ってくれた。
 ――絶対に、ここに帰ってきて下さい。
 それが女の出した条件だ。それくらはお安い御用だ。むしろ男だって、自分の事を見てくれて、言葉を聞いて返してくれる存在を失いたくはない。だから、ここに帰ってくることは初めから「当たり前」のことだ。
 フラリと出て行ってフラリと帰ってくる男に、たまに拗ねた顔を見せる女。けれど帰ってくると、嬉しそうなのがよく分かる。それがなんだか照れ臭くて――幸せだった。

 沈んでいた意識が上昇する。そして気が付くと、ホームは閑散としていた。今日の列車はなくなってしまったのだろう。ならば、さっきの少女ももういないのだろうか。そう思って先程少女がいた場所を見てみると、まだ居る。バックを抱き締める手が震えていた。ポタポタと地面に落ちているのは、たぶん涙だ。――この少女は、誰を待っていたのだろう。誰かを待っていて、そしてその誰かは来なかった。駆け落ちの相手だろうか?
 少女は顔を上げ、時計を見た。とっくに約束の時間を過ぎてしまったであろう事を、自ら確認した。腕から力が抜けたのか、ボトリとバックが地面に転がる。けれど少女はそれにも気が付かず、ただ時計を見続けていた。果たされなかった約束に、ただ涙を流していた。

 ――ずっと待っていました。約束を、したから。
 あの日、女は言った。きっと恋人と、叶わない約束でもしたのだろう。二人が共に公園に出かけることなんて、どうしたってできない。だからこそ死に際の睦言に、今度一緒に公園で散歩をしようとでも言ったのだろうか。
 しかし叶うはずもなかった約束は、女の中では果たされたことになっている。約束した恋人を忘れてしまったから、現れた男がその相手だと思い込んでいる。……それが幸福なのかどうかは分からないけれど、あのまま一人きりで待ち続けるよりは良かったと思っている。

 涙を流し立ち尽くしていた少女が、のろのろと落ちたバックを拾い上げ、足を引きずるようにその場から去っていく。その後姿を見ていたら、急に女に会いたくなった。屋敷から出てきたばかりなのに、会いたくてたまらない。
 だから男も、その場を離れた。

 7

 ――……さま。

 呼ばれた気がして、女はゆっくりと体を起こした。けれどあたりを見回したところで、この屋敷には誰もいない。五日前に男は出て行ってしまったし、当分は帰ってこないだろう。
 いつもだ。男が出て行ったしばらくの間は、叫びだしたい程の寂しさに襲われる。そんな時にこだまするのは、夫ではない男の声。その人が誰かは知らない。思い出せない。ただ、切なくなる。

 逢イタイ。逢イニ行カナクチャ。愛シテイマス。アナタダケ。ドウシテ一緒ニ居ラレナイノ。噴水ノトコロデ待チ合ワセマショウ。コレハ罪デス。ドンナ罰ガ待ッテイテモ。アア、モウ止メラレマセン。一緒ニ居ラレルナラ。逝キマショウ。約束デス。生マレ変ワッタラ、アノ公園デ散歩ヲシマショウ。

 溢れる言葉の断片から逃れようと、耳を塞ぐ。思い出すべきことかもしれない。でも、思い出したら男が消えてしまう気がする。かつて夫であった人が、消えてしまう気がする。だから遠ざけて封じ込めてしわなくてはいけない。
 女は繰り返し男の名前を口にする。そうすれば、溢れ出でるものを塞き止められるとでも言うかのように、執拗に繰り返す。
 一人は嫌だ。帰ってきてくれないのは嫌だ。男が消えてしまうのは嫌だ。だから女は、必死に声を振り払う。
 ああ、早く帰ってきてほしい。その声を。その笑顔を。それさえあればこの声に囚われてしまう事はない。今の女にとって必要なのは、これではない。欲しいのは――。

「ただいま」

 舞い降りた声に、女は男の名を呼んでいた唇を閉じた。そしてそっと顔を上げると、心配そうに覗き込んでくる男と目が合った。
「どうして……」
 屋敷を出たのは、たった五日前だ。こんなに早く帰ってくるなんて、今までなかった。震える指で男に触れる。男はくすぐったそうに笑うと、その指をとって、女を引き寄せた。
 すっぽりと男の腕の中に納まった女は、感じないはずの温もりを感じて目を閉じた。こすり付けるように頬を寄せ、男がそこに居ることを確かめようとした。

 ああ、もうどうしようもなく求めているのは、この人だ。どんなに切なさに締め付けられても、会いたいのはこの人だ。――満ちる心に、女は笑う。

 約束から救い上げてくれたのは、あなただから。

***

 森の奥深くには、捨てられた屋敷がある。そこに棲むのは一人の女と一人の男。
 かつて夫婦だった二人はいつ終わるとも知れぬ時間を漂う。男は何も語らぬまま、女は愛した記憶も死んだ理由も結んだ約束も忘れたまま、一人残されることに怯えて寄り添いあう。いつかこの永遠が二人共に終わることを願っている。


 女の一人称でちょっとだけ書いていたものを、三人称に変えて書き直し。……昔は三人称ばかりでしたが、最近ムリだ。人称がフラフラしてしまいました。
 あまり先のことを考えずに書いていたので、結局グダグダになってしまいました。もう続き物はやめようと思います。長いものは全て書いてからアップするようにしますね。

inserted by FC2 system