枯れゆく私

掲載日:2007-10-3

 花を枯らした。買った時にはマグカップ型の植木鉢の中で熟れた柿色の花を咲かせていたガーベラは、花びらをほとんど失い力なく頭を垂れて植木鉢の縁にその身を預けてしまっていた。
 原因は、日当たりの悪い棚の上に置いてたこと。なんとなく買ったものだから、気が向いた時に水をやる程度でろくに見てもいなかった。弱っていったことに気づけないまま、ガーベラは枯れ落ちた。
 太陽に焦がれながらも傍にいることができなかったガーベラ。もう遅いとわかっていても植木鉢ごと庭に出し、一番日当たりのいい場所にそっと置く。
 枯れゆくガーベラが、大好きな太陽を全身に感じられるように、と。

 私にとっての太陽は圭くんだ。
 枯れたガーベラのように、圭くんを失えば私も力尽きて枯れ落ちてしまう。ひまわりみたいに力いっぱい圭くんに心を向けて、全身でその温もりを感じていたい。
 そして、私が吸い上げる水は描くこと。
 真っ白なキャンパスから絵筆を伝って、指先から吸い上げて体中に満ちていく。別に絵筆じゃなくてもいい。鉛筆でもクレヨンでも、なんだってかまわない。絵を描くことができるなら、心は潤いを帯びるのだ。
 だから、圭くんの背中をスケッチブックに描き出す。パソコンの前に座って、再来週提出のレポートをまとめる圭くんの背中には、疲れと一緒に溢れ出るエネルギーがある。それを写し取って、自分の中に吸い上げた。
 西洋史を専攻している圭くんは、歴史が好きで歴史を研究したくて今の学部を選んだと言っていた。面倒なレポートに口では疲れたと言いながらも、キーボードを打つ指は楽しげだ。そんな風にレポートに追われる圭くんはかまってくれないけど、全然かまわない。もともと一人でいることが多いし、暇な時間の過ごし方も不自由しない。ましてや圭くんと同じ部屋の中にいるだけで、雨上がりの街を歩くように心は浮き立った。
 一本一本の線を描き込むたびに、幸福感でいっぱいになって眠くなる。スケッチブックを閉じて、近くに落ちているクッションを引き寄せると遠慮なく眠りについた。

   ***

 圭くんを知ったのは、日焼けも気にせず外を走り回っていた小学三年の夏。
 私が一年前から通っていたアットホームな子供絵画教室に、圭くんも通いはじめた。学年がバラバラの子達が十五人前後いたけれど、その中で同い年なのは圭くんだけだったから、学校は違ってもすぐに仲良くなった。
 圭くんが来てから最初の写生会では、並んで描いた。圭くんは目の前に広がる川と街を。私は足元の小さな花を。二人で絵の見せ合いっこをして、楽しいねと笑う。私が好きな教室を、楽しいと言ってくれた圭くんとはいつも一緒にいるようになった。
 週に二回の教室はいつだって待ち遠しかったし、たまにある写生会はもっと好きだった。絵を描くことはもちろんだけど、圭くんと二人で何を描こうかと相談し合って歩き回る時間がいとしかった。
 今から思い出すと、あの頃はいつもキラキラした世界にいた気がする。悩みや嫌なこともあったはずなのに、振り向けば輝きしか見えなかった。
 でも小学五年の冬、圭くんが引っ越してしまった。あんなに仲が良かったのに、教室以外で接点のなかった私達は、連絡を取り合うことも思いつかず会うことはなくなった。
 それは寂しいことだったけど、疑問はなかった。単純に、出会いも別れも受け入れていた。大人っぽい理屈というより、その時その時に目の前にあるものが一番大切で、去ったものに気を回す余裕がなかっただけだ。

 でも、圭くんとの縁はしっかり繋がっていた。八年近く経ったある日、私は圭くんと再会することができた。
 大学に向かう途中の駅近くにある小さな公共美術館。そこには十九世紀の画家であるアルフォンス・ミュシャがメインで展示されていて、気に入っていた。
 ミュシャは油絵も描いているけど、舞台などのポスターで知名度を上げた人だ。鮮やかな色合いで描かれた女性達は、誰もがしなやかな姿や流れる髪を持っていて魅力的だった。周囲を彩るのは植物のつるや花、宝石や様々な小物。華やかで洗礼されたポスターがたちまちパリ中で人気になったのも納得できる。日本でもミュシャは受け入れられて、文芸雑誌『明星』に模写されている。国文科に通う私は、そこからミュシャを知ったくらいだ。
 私は油絵よりも、ミュシャの描いたポスターが気に入っている。何度見ても飽きなくて、入館料が安いのをいいことに気が向くたびに足を運んでしまっていた。
 そして一昨年の夏休み、定期が切れる前にとミュシャを見に行った。特にお気に入りの『四季』四部作のひとつ『夏』の前で足を止めて、丹念に見つめる。日が傾き暑さが和らいでいく中、素足を投げ出し指先を水につけ、こちらを見る女性。妙に気だるげな表情を浮かべる姿にいつも目を奪われる。
 そんな『夏』をじっくり堪能していた時、隣に人の気配がして視線をずらした。すると、竪琴を奏で小鳥に微笑みかける女性が描かれた『春』のポスターを、どこか見覚えのある男の人がじっと見ていた。
 誰だろう。そう思ってその人の横顔を睨むように目に力を入れた。記憶の端で知っていると思うのに、どうしても誰かわからない。
 不意にその人が私の方を向いた。よほど熱い視線を送ってしまったようだ。でもこちらを向いてくれたおかげで、その人の顔を正面から見ることができた。左の目元の小さなほくろ。
「圭くん!」
 目が合った途端に、私の口は無意識にその名前を紡いだ。
「……和歌子、ちゃん?」
 その人は軽く眉をひそめて何度か目を瞬かせてから、自信なさげに私の名前を呼んだ。それが圭くんとの再会だった。
 一通り展示を見てから二人でファミリーレストランに行って、会わなかった八年間を埋めるようにたくさん話をした。
 その中でも一番驚いたのは、私と同じ大学に通っていたということだ。小学生の時に引っ越した圭くんは、わざわざこっちの大学を選んで戻ってきたという。もしかしたら、幼い頃に住んでいた街の近くに帰ってきたかったのかもしれない。実家から離れて一人暮らしをしている圭くんは、大学の近くに部屋を借りているらしかった。
「美術学科には行かなかったのか?」
 いまだ私が絵を描いていると知った圭くんは、当然そう尋ねてきた。うちの大学には美術学科もあるのだから尚更だろう。
「描くことは好きだけど、勉強したいわけじゃないから」
 もちろん美術学科だって考えたことはある。けれど、なにかしっくりとこなかった。美術サークルも同じ理由で入っていない。というより、中学と高校でも美術部に入った経験はなかった。
 たぶん、絵を誰かに見せたいわけでも上手くなりたいわけでもないのだろう。ただ描きたいだけだ。幼い頃のように、みんなで大騒ぎしながら描くことは求めていない。国文科だって好きで選んだ学科だし、大学生活は充実している。あとは一人で絵を描く時間があれば十分だ。
 なにより圭くんに再会することができたのだ。ぐいぐい水は吸収され、がんがん太陽の光は降り注ぐ。私の生活は幼い頃のように生き生きとしていた。

   ***

「――和歌子」
 まどろみの向こうから呼びかけられる。
「和歌子、起きろって」
 ぺちぺちと頬を叩かれて、目を開いた。
「けーくん」
 ぼんやりとしたまま名前を呼ぶと、両方の頬を引っ張られた。
「起きろ。気分転換に飯作ったんだ。食べよう」
 おお、それは起きないと。圭くんの手料理は、悔しいけど私より数段上だ。意識してそこらに漂う匂いを嗅ぐと、お腹が切なげに鳴いた。
「メニューは?」
「ナスとチーズのミートソースパゲティ」
「それじゃあ、チーズが固まる前に食べないとね」
 のそっと起き上がってハイハイでテーブルに近づき、圭くんがスパゲティを持ってきてくれるのを待った。飲み物くらい私が用意したほうがいいと思うんだけど、私に手料理を食べさせることが好きな圭くんはただ座って待っていることを好む。全部準備してもらう代わりに、後片付けは私だけど。
 湯気を立てたスパゲティが目の前に置かれた。少しして、水と割り箸を渡される。スパゲティを食べるのに、何度も洗って再利用してる割り箸を使うのが、圭くんのスタイルだ。最初は驚いたけど、これのほうが食べやすいので結構気にいってしまった。
 お箸でスパゲティをつまみあげると、チーズが糸をひいておもしろい。なかなかチーズが切れないところがいいのだ。いつも私がチーズ入りスパゲティを絶賛するから、圭くんは必ずチーズを入れてくれる。
「どう?」
「おいしい」
 満足そうに笑って、圭くんもやっと自分の分に手をつけた。自分で作った時は、私が一口食べるまで食べないのも圭くんらしい。
「レポートはできたの?」
「まだ。行き詰まったから気分転換したんだ」
 今回のレポート課題は『ドイツ現代史から好きなテーマで』という大雑把なものらしい。圭くんはさっさとテーマを決めていたから、もう調べものは済んでまとめるだけ。私も一度くらいは締め切りに余裕を持って完成させてみたいとは思う。まあ、動き出すのが遅くて、いつもギリギリだけど。
 余計なことを考えるのをやめて、食欲をそそる香りがするスパゲティに集中した。今日のナスはいつも以上にとろとろしていておいしい。前はナスが嫌いだったけど、圭くんが炒めたナスは柔らかくて好きだ。じゅわっとナスに染みこんだ味が口の中に広がる。

 幸せだと叫びたい衝動に駆られるくらい、私は満たされていた。
 でも、この満ちた想いはすぐに音を立てて引いていくことから目を逸らせない。

 視界の隅に映るのは、ドイツ語会話の本や留学資料。否応なしに見せ付けられる、圭くんがいなくなってしまう影。
 彼は残暑の季節にはいなくなる。一年間、ドイツに留学するのだ。前から留学してみたいと言って、ドイツ語の勉強をしていた圭くんを知っている。だからそのチャンスがめぐってきた時、迷わず背中を押した。
 何もせず後悔しか残らない苦さを知っている。だから、そんなものを味あわせたくなかった。圭くんが望むなら、一年間会えなくなることなんて我慢する。今は電話もメールもあるのだから、連絡がとりたければすぐにできる。寂しさを抑えることはできるはずだ。
 この満ち足りた幸せが終わっても、私達の仲が終わるわけじゃない。狂おしいほど痛くても、満たされる未来を信じられる。
 だからもうすぐ去る圭くんを、笑顔で見送ることができるのだ。

   ***

 紫陽花が咲いていた。
 白から薄い紫へと色付く花びら。もうこんな姿が見る季節になったのだ。もう、こんなに夏に近づいたのだ。ひたひたと時間が音を立ててついてくる。締めつけられる苦しみは覚悟していたのに、やっぱりつらい。
 それでもじっと紫陽花を見つめる。記憶に焼き付けようと、じっと。圭くんを笑顔で送り出すと決めたのだから、ささいな痛みも受け入れるのだ。
 鞄からスケッチブックを取り出して、鉛筆でさっと紫陽花を写し取る。そしていつも持ち歩いている小さな水彩キットを開いて、涼やかな色を紙の中に閉じ込める。迫る時間をしっかりと描き残す。自分へ向けたささやかな楔。行かないでと言わないための、楔。
 描き終わった紫陽花を数秒見つめて、圭くんの部屋に急いだ。

   ***

「――え?」
 圭くんが用意してくれたケーキに手をつけることも忘れて、告げられた言葉を頭の中でリピートした。ケーキと紅茶を用意して腰を下ろした圭くんは、何気ない口調で「夏休みなったら、ここは引き払って実家に帰ろうと思うんだ」と言ったのだ。
「留学する前に、親に顔を見せといたほうがいいだろうし」
 それはもっともだ。一年間のドイツ留学をするのだから、ご両親だって心配だろう。せっかくの夏休みなのだから、留学する前くらい実家で過ごしたほうがいいことは納得できる。
 でも実家に帰ってそのまま留学してしまうなら、夏休みなったらもう圭くんと会えなくなるということだ。少しでも引き伸ばしたい別れが早まってしまう。
「ごめんな」
 困った顔の圭くんを見て、慌ててフォークを握る手に力を込めてた。
「別にいいけど、一度そっちに遊びに行ってもいい?」
 明るい声を心がけて、胸の奥でうごめいたものを振り払う。
「いいよ。その辺の観光案内もする」
 フォークを握る手が、震えていることに気づかれないように願った。

 ケーキを食べ終えて、私が持参した画集を二人でテーブルに広げていた。BGMはドイツ語会話。最近はいつもこれがかかっている。少し憎らしいけど、文句は言えない。今は絵を眺めることに専念した。
 絵画教室に通っていた頃も、こんな風によく画集を見ていた。先生の部屋にはたくさんの画集があって自由に見ることができたから、適当に選んで柔らかなソファーの上で開いていた。よくわからない絵のほうが多かったけど、綺麗な絵は単純に好きだったし、二人してああだこうだと言いながらページをめくることは、長い年月が過ぎた今でも胸を高鳴らせる。
「そういやさ」
 絵に視線を落としていた圭くんが顔を上げないまま口を開いた。
「絵画教室って潰れた後、どうなってんだ?」
 画集の次のページを開こうとした指がすぅっと冷たくなった。瞬きすら忘れて、慎重に口を開く。
「今は先生も娘夫婦と暮らすために街を出て、建物も壊されてマンションが建ったよ」
 妙に早口になった。動揺を悟られていないかと不安になる。私の中にくすぶり続ける苦い痺れに、気づいてほしくなかった。
「ふうん。なんか寂しいな」
 圭くんはそれだけ言って、口を閉ざした。私はなるべく自然にページをめくる。
 冷えた指先に温もりが戻ったのは、圭くんの部屋を出た後だった。

   ***

 気を滅入らせる梅雨が明けても、気分は重いままだ。理由はわかっているから、圭くんの前ではこの気分を表に出さないように気を使ってしまう。
 そんな日々に嫌気がさした午後、お菓子でも作って気分転換をしようと地元のスーパーに買い出しに出た。
 特に何を作りたいとイメージがあったわけではないから、お菓子作りの商品が並ぶ棚の前でどうしようかと悩む。圭くんのところにもお裾分けするし、ケーキみたいなくずれやすいものはやめておこう。クッキーは好きだけど、悩んだ時はいつも作っているから別のものを作りたい。
 パウンドケーキ。マドレーヌ。カップケーキ。ゼリー。プリン。和菓子なんかもいいかもしれない。思いつく限り頭の中でイメージしてみたけれど、今回はプリンにすることにした。ゼラチンで固めるプリンじゃなくて、オーブンで焼いたカスタードプリン。
 でもプリンにするなら、わざわざスーパーまで出てくる必要はなかったな。家に卵も砂糖もはあったし、あとは牛乳を買うだけだ。家の傍のコンビニで十分。やっぱり無計画に行動するのも考えものだ。せっかくだから特売の一番安い牛乳を手にとって、レジに向かう。

 ――そして、あっさりと突き落とされた。

 足の先から頭のてっぺんまで、びりびりと電流が走った。指先が痙攣して、手に持っていた牛乳がごとりと落ちる。けれどそんなことにかまっていられない。唇を震わせて、崩れ落ちそうな意識を必死で支えた。ショートして真っ白になった頭はすぐに回復したけど、駆け巡る言葉は洪水のように、次から次への溢れる。なのに、声にはならない。捕まえる前に言葉は霧散してしまう。
 私の目を捕らえて離さないのは、レジで仕事に勤しむ忘れたい友人の姿。青木奈緒の、姿。

   ***

 圭くんが絵画教室をやめた後、仲の良かった奈緒ちゃんを教室に誘った。絵が好きだと言っていたし、奈緒ちゃんがいれば楽しいだろうな、と思ったからだ。奈緒ちゃんは二つ返事で教室に通いだした。
 だけど、それは大きな誤算だった。奈緒ちゃんと一緒に通いだして数週間もしないうちに、楽しいどころか嫌で嫌でたまらなくなった。
 学校もバラバラで、年齢のバラバラな生徒達。小学五年は私と奈緒ちゃんだけで、同じ小学校の子も私達だけだった。今まで私はそれでも十分楽しかったし、みんなともうまくいっていた。だけど奈緒ちゃんは他の子と馴染むことができなかった。私が誘ったのだから、一生懸命みんなと仲良くなってもらおうとしたけど、奈緒ちゃんはむしろ険悪なムードを作り上げていく。
 たとえば二つ下の男の子が描いた絵を見て、平気で「下手だ」と笑った。別に上手だというわけではなかったけど、みんな先生のアドバイスを受けながらも好き勝手に描いている教室だったから、人の絵を笑うなんてこと誰もしなかった。それを、奈緒ちゃんは笑った。悪気はなかったかもしれない。だけどその男の子も、他の生徒達も嫌な顔をした。
 その後も奈緒ちゃんはあけすけない言葉で、教室のムードを盛り下げる。あの先生は嫌いだとかあの子は変だとか平気で言うのだから、みんなが奈緒ちゃんと話さなくなっても仕方がなかったかもしれない。
 代わりに私は奈緒ちゃんから離れられなくなった。どんどん教室の中で孤立していくことを肌で感じても、奈緒ちゃんから離れることも怒ることもできなかった。怖い、と思ってしまった。ここで奈緒ちゃんとの関係がおかしくなれば、学校でも孤立してしまうことを直感していたから。
 あの頃の私にとって、家と学校と絵画教室だけが世界だった。その中でも絶対に逃れられない学校。奈緒ちゃんを怒らせたら、確実に他の子も私を避けるようになる。それは嫌だった。
 絵画教室をやめたくなった。あんなに大好きだった場所を、嫌いになった。教室に行くのも嫌なら、学校に行って奈緒ちゃんに会わなくてはいけないのも嫌だった。それでもそれを押し殺して笑わなくてはいけない日々が苦しかった。
 一日一日が早送りで過ぎていくことを、何度だって祈った。

 だけど終わりは唐突にやってきた。絵画教室が潰れたのだ。
 悪化した教室のムードに、ほとんどの人が嫌気をさしていたのだろう。ぽつりぽつりと生徒が辞めていって、ついには半分以上がいなくなった。最初から人数が多かったとはいえない教室は、閉鎖せざるを得なくなった。
 私は教室を潰れることを祈ったわけじゃない。なのに小学六年の夏休みいっぱいで、教室は潰れた。最初に私を包んだのは、安堵。これでもう教室に通う必要はなくなったという、安らかな解放感。そして一ヶ月も経たないうちに、激しい罪悪感に襲われた。
 私が奈緒ちゃんを教室に誘ったから、潰れた。
 私が奈緒ちゃんを注意できなかったから、潰れた。
 私が奈緒ちゃんを拒絶する勇気がなかったから、潰れた。
 時間が経てば経つほど私は苦くて鈍い痛みにさいなまれた。大切だったはずの場所が、永久に奪われたことを自覚して何かが抉られたようにじんじんした。好きだった。大切だった。あの場所が。あの空間が。なのにもう手の届かない幻となってしまった。
 憎らしいほど奈緒ちゃんが嫌いになった。あの子さえいなければと、暗い憎悪が噴出す。でも、その憎悪はすぐに自分自身へと向かった。
 奈緒ちゃんは自分勝手に振舞った。だけど、馴染めない場所に連れ込んだのは私なのだ。私にとっては楽しくて大好きな場所でも、すでに親しいムードで覆われた場所に入ることに奈緒ちゃんはつまずいた。それに配慮しなかった私は幼かったのだろう。
 奈緒ちゃんに苛立ちを募らせれば、その分だけ自分自身に跳ね返ってくる。忘れようとしても、気がつけば抉り出して苦い痛みにのた打ち回る。その繰り返しだった。
 どんどんお腹の底で育っていく黒いくすぶりに、私は耐えられなかった。あんなに学校で孤立することを嫌ったのに、自分から奈緒ちゃんをはじめとする友達グループを抜けた。抜けてしまえばあっけないものだ。最初のうちこそ戸惑ったようにかまってきた友達も、無愛想になった私にすぐに愛想をつかした。無視とかのいじめはなかったけれど、確実に私は孤立していた。
 もうここにはいたくなかった。私のことを知らない人ばかりの場所に行きたかった。それがただの逃避でしかないことにも気がつけなかった幼い私は、中学受験して公立に行くことをやめた。

 そして何度も夢を見る。
 夢の中で、私は何の疑いもなく絵画教室に向かう。奈緒ちゃんが入る前の、圭くんが引っ越してしまう前の、楽しくて大切な場所へ息を切らして飛び込む。
 ドアを開けた瞬間に感じる絵の具の匂い。足の裏に感じる床の冷たさ。先生用の部屋に顔を出し、こんにちはと告げる。柔らかな黒いソファーに座る先生は、柔らかい笑みを浮かべてくれた。少しうるさいくらいの話し声が聞こえる教室に入って、みんなの声に負けないくらい大声でこんにちはと叫んだら、遊んでいたみんなもこんにちはを返してくれる。
 圭くんはまだ来ていない。また放課後に友達と遊んで、時間ギリギリに来るのだろう。そう思っていたら、珍しく早めに来た。圭くんは、私の隣の席に座って「よう」と笑う。そしてポストカードを取り出して、日曜日に連れて行ってもらったという美術展の感想を話してくれた。
 先生が来ると、みんないっせいに静かになる。最初少し話すと、先生は椅子に座って微笑むだけだ。好きに描いていいという合図に、私達はいっせいにしゃべりだす。
 圭くんや他の子とどんなものを描こうかと相談しながら、パレットに絵の具を絞り出す。
 なんとなく空を書きたいなと思ったから、湿らせた絵筆で白と青を混ぜて画用紙に色をのせた。
 絵を描きはじめて十五分もすると、うるさかった教室も静かになった。どんどん絵に熱中していって、たくさんの絵が紡ぎだされる。
 楽しくて幸せで、キラキラと輝く時間。とろとろと意識が覚醒しはじめても、最初のうちは淡い安らぎに溺れている。ああ、今日も教室に行かなくちゃと思いながら、夢うつつの甘い痺れに酔っている。
 だからこそ、意識がはっきりとすると切り裂かれる。この幸せはもうないのだと突きつけられる。いまだこんな夢を見る自分を嘲笑いたくなる。
 あの頃に戻りたい。呟いたところで巻戻るはずもなかった。

   ***

 気がついたら圭くんの部屋の前にいた。いつの間にスーパーを出て電車に乗ってここまで来たのか覚えていない。だけど私は見慣れた黄緑のドアの前にいる。
 瞬間、音を立てて血の気がひいた。体中から力が抜けて、その場にへたり込む。いつだって暖かく迎え入れてくれたドアは、大きくて冷たい拒絶を向けてそびえ立っていた。ドアを見つめたまま、拳を握りしめる。手のひらに爪が食い込んで、鈍い痛みを感じる。
 血の気がひいた分だけ、頭はクリアになったようだ。様々な感情が足早に過ぎては、形になる。揺るがすことない確かなものを紡ぎだす。急激に色づきはっきりした、一つの想い。
 それを認めた。認めざるを得なかった。
 私が自分で壊してしまった大切な場所。その象徴は圭くんだ。圭くんと過ごした、二年間だ。あの頃は本当に毎日が楽しくて、過ぎ去る時間が惜しかった。明日も変わらず輝くものだと、疑いもしなかった。
 繰り返し夢に見る場所。私が求めるのはあの頃だ。圭くんを通して、あの頃を求めている。そして懺悔がしたいのかもしれない。幼く愚かだった自分を、慰めたいだけなのかもしれない。
 私が美術学科を選ばなかった理由も、中学から今まで美術部に入らなかった理由も、簡単だ。ただ嫌だったのだ。また同じことを繰り返すかもしれないと思うことが嫌だったのだ。
 圭くんが好き。――本当に? もう、そんなことすらわからない。
 その場から立ち上がって、チャイムすら押さずにその場を離れた。

 いつもの三倍時間をかけて家にたどり着くと、ほとんど倒れるようにベットに崩れ落ちる。シーツをきつく握りしめて、引きつる喉の痛みを堪えた。
「圭くん……」
 こぼれた名前。愛しかったはずの名前。突き抜けるような苦い痛みが全身を貫いた。その痛みのまま、携帯電話を手に取り発信履歴から圭くんの番号を呼び出す。
『もしもし和歌子?』
 すぐに圭くんの声が流れ出す。痺れる舌。紡ぎたい言葉を封じ込める、その声。
『どうした?』
 何も言わない私に、彼は言葉を重ねる。溶けてしまいたい。このまま、彼の声に身をゆだねて溶けてしまいたい。何も考えなくてもいいように、ただ彼に包まれていたい。でも――。
「圭くん」
『ん?』
「別れよう」
 反応は返らなかった。かろうじて数秒後、唸り声のような疑問が上がる。
「別れたいの」
 でも、私はすぐに疑問を押しのける。そして、沈黙。電話口からは息さえ詰まらせた動揺が伝わってきた。らに言葉を紡いで、留学が理由でも、圭くんが嫌いになったわけでも、他に誰かを好きになったわけでもない。それでも別れたいのだと早口に告げる。
『和歌っ――』
 やっと圭くんが何かを言おうとしたけど、私はそれを切り捨てるようにプツリと電話を切った。そのまま電源もオフにして、携帯を放り出す。
 一方的な別れ。理由さえも話さない、自分勝手な別れ。これでもう、昨日までは無邪気に紡げた言葉は決して紡げぬ言葉になった。

 梅雨が明けた季節、自分自身で全てを投げ出した。

   ***

 私は執拗に描く。何枚も何回も描き続ける。近くの公園で。電車で川辺に向かって。もっと遠く、海に向かって。何枚も描き続ける。
 刺すように降り立つ夏の日差し。額や背中を流れ落ちる汗も気にせず、汗で濡れるスケッチブックも気にせず、鉛筆で描いては水彩絵の具で彩る。

 圭くんはあの日、すぐに私の家まで来た。でも「ごめんなさい」の一言で追い返す。圭くんと話せば、あっさり折れてしまう自分に気がついていたから、会いたくなかった。
 その後も電話は何回もかかってきたし、大学で会ったりもした。だけどそのたびに逃げ出して、圭くんと話をしなかった。話したくなかった。
 そのうち夏休みに入ってしまった。
 圭くんの部屋に置きっぱなしだった私の荷物が送られてきたから、部屋は解約したのだろう。本や服、私が描いた絵。そして、圭くんからの手紙が一通。ドイツでの住所と電話番号。そして、ドイツへ向かう日の飛行機の時間が記されていた。破ることも、丸めることも、捨てることもできず、その手紙はいまだ送られてきた他の荷物の底に眠っている。
 結局、空港には行かなかった。当日圭くんから電話があったけど、出なかった。その日から、当たり前だけど圭くんの姿は消えた。部屋に行っても大学に行っても、圭くんに会うことはできない。
 完全に圭くんの姿が消えた。私の太陽は、消えてしまった。

 だから私は、照りつける太陽の下で絵を描く。欠けたものを補うように、執拗に描き続ける。描いても描いても満たされることなどないとわかっていても、描くことしかできなかった。
 枯れゆくことは止められないと、わかっていても。

   ***

 自信作だった絵に、水をこぼしてしまったことがある。
 トイレに行こうとして、描き終わった絵を地面に置いてしまったのがそもそもの間違いだった。いつもならそんなことしないけど、外での写生会だったから気分が浮き足立っていたのだろう。目に付くところに絵を置くような場所がなくて、風に飛ばされないように重石をのせただけで地面に置いてしまった。
 そして立ち上がった私の足が、傍に置いていた水入れにぶつかって、嫌な音とともに倒れ絵の具で濁った水を撒き散らす。絵は一瞬でにじむ。私の視界も一瞬でにじんだ。
 濁った水を吸い込む紙に手を触れることも思いつかず、その場に立ち竦んで頭が痛むくらい歯を食いしばった。熱く痛む喉へせり上がるものを必死に飲み込んで、にじんだ視界から雫がこぼれ落ちないように耐えた。
 隣で同じように絵を描いていた圭くんは、最初こそ驚いたように絵と私を見比べていたけど、すぐに乾いたタオルを取り出した。紙を破らないように水分だけ吸い取ろうとしたのか、タオルを広げて絵の上に被せる。見る見るうちに水を吸い込んだタオルをはがすと、自分のハンカチでふやけた紙を丁寧に叩いていた。
 圭くんは無言だった。先生がやって来るまで何も言わずに、台無しになった私の絵から水分を吸い取った。
 落ち着いてから、もうその絵は捨てていいと言ったのに、圭くんは「いらないならもらう」と持ち帰る。そして次の週の絵画教室で、「はい」と付き返された。台無しになった絵なんて見たくなかった。だけど圭くんの目が有無を言わせなかったから、私は黙って受け取る。
 水にふやけた紙は、乾いてもゴワゴワしている。だけど、思ったよりも綺麗だった。圭くんが乾ききる前にこの絵の上に重石でものせて、紙が変に縮まらないようにしてくれたのだろうか。もちろん私の描いた絵は、見る影もない。それでも、ほとんど破れていない紙に、圭くんがこの絵をとても大切に扱ってくれたことがわかった。
 そう、圭くんはいつだって私の絵を大切にしてくれた。私を、大切にしてくれた。だけど私はいつも、何かを壊してしまう。

   ***

 九月も過ぎて、夏休みが終わった。それでもまだまだ暑さが残り、電車の中には冷房が効いている。ゴトゴトと電車に揺られ、ふっと眠気に襲われた。抗うことなく身を任せようとして目を閉じたのに、まぶたの裏に圭くんの姿が浮かんでしまう。
 お腹の底がぐっと冷えた。慌てて目を開けて、残像を振り捨てるように首を振る。
 ――「ミュシャの絵の中でどれが好きかって?」
 なのに蘇ってしまう、圭くんの声。再会したその日、ファミリーレストランでチーズケーキを突きながら、離れていた月日を補うようにした会話のひとつ。
 ――「好きっていうか、印象に残っているのは『春』かな」
 そう言って笑った圭くんの、木漏れ日のような暖かさ。眩暈がする。痺れる意識に叫びだしたくなる。
 そして耳が捉えた電車のアナウンス。ホームに電車が入り、ドアが開く。反射的に私は腰を浮かせた。大学へはあと三駅あるけれど、私はホームに降り立つ。美術館の最寄り駅の改札を、抜けた。

 開館されたばかりの平日の美術館は静かだ。私以外にお客さんはいなくて、奇妙に張り詰めた空気を感じる。
 端からゆっくりと、ミュシャのポスターを見ていく。何度も訪れたミュシャ館だけど、いつの間にか展示テーマは変わっていたらしい。ポスターの横に、見たことのない草稿や下書きが展示されていた。
 けれど、私の視線を縫いとめるのはたったひとつのポスター。気だるげにこちらを見つめる女性。『四季』四部作の『夏』。抗えない衝動に、視線をゆっくりと横にずらした。
 ――誰もいない『春』の前。
 もうダメだった。もう耐えられなった。その場にしゃがみこんで、激しく体中を揺さぶる叫びに、泣いた。圭くんに会いたい。ほとばしる想いはそれだけだった。

   ***

 部屋中のスケッチブックを積み上げて、私はぺたりと座り込む。
 一番上の一冊を手に取り、無造作に中の紙を引きちぎった。引きちぎった紙は、二枚に裂いて四枚に裂いて八枚に裂いて。そして手を離す。はらはらと舞う紙。何枚も何冊も同じことを繰り返すから、私の周囲は細かく裂かれた紙で埋もれていった。
 執拗に描き続けた絵はもういらない。もう、枯れてしまった。私の心に咲き誇った花は、枯れ落ちてしまった。苦い痺れが頭を締めつける。裂こうとした絵がぐしゃりと歪む。
 圭くんが好きだ。好きだ好きだ好きだ。そう叫べるならどんなにいいだろう。もうこの声は届かないし、届けることも許されない。確かだった想いを、私一人で断ち切った。
 あの時、動揺で自分の中にある過去への執着に気がついた。圭くんを通して過去を求めていることは違えようもなく真実だったけれど、再会した圭くんと過ごした時間も真実だったのに。
 二人で紡いだ想いに、過去の中でうずくまり目も耳も塞いでいてた私は気づけなかった。自分勝手に大切な人を傷つけ、もう圭くんにあわせる顔はない。
 体に染み入る低い声が好きだった。私の絵をなぞる長い指が好きだった。静けさを含んだ黒い瞳が好きだった。晴れわたるような明るい笑顔が好きだった。私の名前を呼んでくれる、圭くんのことが好きだった。
 壊したものは二度と戻らないとわかっているから、記憶を思い出に変えてしまおう。
 紙を裂く音が、耳の奥で響き続けた。

   ***

 花を買った。熟れた柿色をしたガーベラを、庭で一番太陽が当たる場所に植えた。かつて枯らしてしまった花の名残がある横に、しっかりと。
 マグカップ型の植木鉢はまだそこにある。けれど、花どころか雑草すらも生えていなかった。もう片付けてしまってもいいかもしれない。中に入った土を庭の隅に捨て、植木鉢は洗って再利用したほうが利口だろう。そう思ったけど、そのままにしておいた。枯らしてしまったことを忘れないために、柿色の花びらが揺れる傍にいてほしかった。

 植木鉢の縁をそっと撫でて大切な名前をこぼしたら、ガーベラにぽつりと落ちた。


 今月も小説が書けそうになかったので、以前大学に提出した小説の修正版。
 奈緒の存在が宙に浮いているし、和歌子が圭くんに別れを告げた理由がわかりにくい、などと話の焦点があやふやだと注意されました。いつかこの小説はじっくり書きたいと思っているんですが、当分は大幅に書き直す気分にはなれないので、今回はほとんどそのままアップです。忘れた頃に書き直しているかもしれません。
 あと、二人が再会していたミュシャの美術館は本当は文化館。大阪にあるJR堺駅の近くにある堺市立文化館がモデル。与謝野晶子館とアルフォンス・ミュシャ館が同じチケットで見れます。安いです。大人500円。学生300円。去年まで、世界に誇れるミュシャコレクションが堺市にあることを知らなかった堺市民です。はい。

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