私の好きな人?

掲載日:2007-04-22

 夢を見た。夢の中で私はとても幸せだった。
 嬉しくて、懐かしくて、愛しくて、切なくて。夢を夢と自覚しないまま、確かに感じる幸せに心躍らせる。
 けれど目覚めると生まれるのは、自嘲。夢に見た人を思い浮かべて、どうしようもない虚しさに襲われる。

 いつまで彼を想うのだろう。
 いや――いつまで彼を好きなのかと悩み続けるのだろう。

 ***

 その日、春休みだというのにかなり早くに目が覚めた。苦い痺れが胸を締めつけ、もう一度眠る気にはなれなかった。だから私は服を着替え、食パンとコーヒーを飲んでから家を出る。
 私の住む街は海に近い。十五分も歩けば海にたどり着いて、潮の香りが強くなる。柔らかな砂浜に下りて、ぼんやりと歩いた。

  ――「おはよう」

 そう声をかけられたのは、浜辺に下りて数分後のことだった。波の音だけが響く冷えた空気の中、声をかけてきた主は犬を連れた男の人。
 私は何も考えず、挨拶をされたから「おはようございます」と返す。走っている人や犬の散歩をしている人だけが、まばらに歩く静かな朝。見知らぬ人も挨拶をしてくるし、私も気分良く挨拶をする。そういう雰囲気は、けっこう好きだ。
 そのまま通り過ぎようとしたら、声の主は困ったような声で「……気づいてない?」と聞いてきた。
 不思議に思った。何に気がついていないというのだろうか。
 立ち止まって声の主を見る。彼は苦笑を浮かべ、足元の犬は大人しくお座りをしている。

 「俺のこと覚えてない?」

 さらに言葉を重ねられ、より真剣に彼の顔に注目した。
 どこかで見た事がある。そう思った。
 ある人を思い浮かべた。けれど、顔を見てすぐに気がつかなかったのだからあの人ではないと除外。
 結局わからず、失礼ながら「誰?」と聞いてみたら彼は苦笑を深めて名乗ってくれた。

  ――「古川昇」、と。

 その時の私の衝撃はすさまじかった。叫ばなかっただけでも、たいしたものだ。全身の血は音を立てて下がったし、頭の中は真っ白。彼を注視したまま固まり、絶句した。
 彼が再び口を開く前になんとか立て直し、無理やり明るく「覚えてる覚えてる」と言った。
 ほっとしたように彼は――古川は笑う。

 その後はどんな言葉を交わしたかは覚えていない。ほんの二、三分の再会。
 けれど私の心に熱烈な思い出を刻むには、充分すぎた。

 ***

 ショックだった。本当にショックだった。
 だって、仮にも数年間も気になって気になって仕方がなかった人のことが、わからなかったなんて――!
 いや、一瞬はその名前が頭をよぎった。だけど誰が思うだろう。好きだった人のことを、すぐにわからなかったなんて。だから彼ではないと除外したのに。

 古川昇。
 小学校が一緒だった。中学校は古川が私立に行ったので別々だった。高校は古川がエスカレーターで持ち上がる私立に私も進学したから一緒だった。大学は全く別だったので再び別々になった。
 小学校の時は仲が良くて、高校で再会して妙に気になりだした人。友達として好きなのか、異性として好きなのかわからなかった人。高校時代は特に接点はなかった。一度も同じクラスにならなかったし、委員会も部活も全く違った。それでも登下校や廊下で会えば挨拶くらいはできた。
 古川がどの大学に行ったかは知らない。家はどこか知っているし歩いていける場所にあるけれど、だからといって会いに行けるわけでもない。会うには消極的な偶然に頼るしかなかった。積極的に偶然を生み出すなんて、できなかった。
 会えなくなってからも会いたいと思った人。好きかどうかはわからないけど、好きな人と言われて思い浮かぶ人。

 古川に会えた。古川が声をかけてきてくれた。
 思い出すだけで鼓動が高鳴る。同時に、急速に自己嫌悪に陥る。
 どうして気がつけなかったんだろう。会いたいと思ったし、夢にまで幾度となく出てきた人なのに。

  ――やっぱり、好きじゃなかったのかな。

 そう思って落ち込んだ。
 でも、そうでしょう? 高校を卒業して一年も経っていないのに、好きな人に気がつかないわけがない。好きじゃなかったから、わからなかった。古川のことは特別に意識はしていたけれど、異性として好きだったわけじゃなかった。

 ――本当に?
 あきるほど繰り返した自答自問の無限ループ。

 好きだと思った。
 好きじゃないと判断した。
 でも好きなんじゃないかと悩んだ。
 
 高校に入ってから――いいや、古川が通うであろう私立の高校に進学を決めてから、ずっと気になっていた。また古川に会えると考えると、嬉しかった。その頃にはもう、「好きかもしれない」という想いに囚われていたのだ。だけど三年間、一度も会っていない人を好きになるものなのかと疑問だった。ただ懐かしさと恋心を同一視させているだけなんだと思った。
 そして高校に入学してから二日後に再会した。帰り道。地元の駅でだ。それ以降も駅や学校の廊下で顔を合わした。別に仲良く話したわけじゃない。ただ、挨拶程度だ。それでも「好きかもしれない」という想いは消えなかった。むしろ、ますます強くなっていった。
 そんな状態が続いても、私は冷静に「懐かしさと恋心の同一視」という可能性を捨てきれずにいた。もしかしたら、好きだと思うクセがついているんじゃないかと疑った。
 しまいには考えることが面倒になって、「よくわからないから気にせずにいよう」と盛大に横に置いた。

 そのしっぺ返しがきたのは卒業してからだ。
 再び全く古川に会う機会がなくなると、私は頻繁に古川のことを夢で見るようになった。夢の中で私はとても幸福で、満ち足りていた。目覚めれば未練がましい自分にあきれた。
 繰り返し。ずっとずっとその繰り返し。
 そんな中、与えられたチャンスをみすみす逃してしまった。
 せっかくの再会。なのに私は気がつけなかった。動揺で、どこの大学に行っているかすら聞けなかった。携帯のアドレスを聞くなんて思いつきもしなかった。また会いたい。そう思うのにチャンスを手放した。

 好きなのかそうじゃないのか思い悩むのにも飽き飽きしている。それでも悩む自分が嫌い。

 ***

 そして私は今日もまた冷たい朝の空気の中を歩く。
 古川と再会した日の翌日から、毎日のように同じ時間に同じ場所へと足を運んでしまう。犬を連れていたから、毎朝散歩をしていても不思議じゃないと思ったのだ。もう一度会えることを期待したのだ。
 けれど古川とはあれ以降一度も会っていない。少し時間をずらしたり、海の傍の通りも歩いた。古川以外の人なら何人も発見できたけど、古川はいない。
 あの日、犬の散歩をしていたのはピンチヒッターだったのだろうか。いつもは別の家族が散歩をしていたけど、あの日だけ古川がやっていただけ。だったら、古川を見つけられなくても仕方がない。

 堤防の上にある自動販売機で暖かい缶コーヒーを買った。傍のベンチに座ってちびちびと飲みはじめる。ほんのり体を温めるコーヒーの温もり。ほうっと息をついた。なんだか、胸がぎゅうっと締めつけられて喉の奥が痛くなった。
 何をしているのだろう。古川に会いたくて、朝の町を歩く未練がましい私。馬鹿みたい。缶コーヒーを握る手に力を込めた。
 目の前に広がる青い海。朝陽を受けてキラキラ輝く波間の宝石。穏やかな波の音。寄せて返す、波の音。私の心も波と同じ。古川への想いが満ちては引いていく。離れても変わらない、消えないもの。
 いつまで私は想い続けるのだろうか。もう好きだと思うことが条件反射。それでも抱き続けたいと感じてしまう。

 ――あ。

 砂浜に視線を移すと、犬を連れた男の人がいた。後姿だけど、もうわかる。古川だ。
 思わずベンチから腰を浮かせた。さらに一歩踏み出そうとして、ためらう。

 波の音がする。満ちては引いていく波。満ちては引いていく想い。
 これからもずっと好きなのかどうなのかと悩み続けるのだろうか。これからずっと、ずぅっと。
 まぶたを下ろした。胸の奥にくすぶる確かな答え。触れたら後戻りできなくなる。動き出してしまう。加速していく。それでも――踏み出さなくちゃ。
 会わないからわからない。話さないからわからない。満ちては引いていく想いは、傷つくことが怖いから生まれるもの。
 一人相撲よりも、古川に手を伸ばそう。声をかけて、振り向かせて、たくさん話そう。たくさん笑おう。そしたらいつか、好きかどうかもわかるから。

 残っていた缶コーヒーを一気に飲み干す。自動販売機の横のゴミ箱に缶を捨てると、一度頬を叩いて気合を入れた。
 目標は古川。堤防から砂浜に勢いよく駆け下りて、声を張り上げる。

 「おはようっ!」


 難産小説。もう会わないのに、夢に見てしまう人がいるっていう感じの小説を書きたかったんですが、なんか違う。でもまあ、これはこれで好きです。

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