掲載日:2006-11-04 〜 11-17
私達の好みは似ている。同じ人に惹かれる。
ならばこれは、偶然か必然か。
新大阪駅に降り立つと、私は虚しくなった。
誰にも伝えず、一人で東京からここに来た。どうしても、確認しなければならないことがあったから。
けれど、それはとても気が重い行為だ。
このまま、何も触れずに東京に取って返した方がいい。いつもみたいに見ない振りをしていればいい。
ここに来るまで、何度言い聞かせたかわからないことだ。
それでも、私は行かなくてはならない。
もう、けじめをつけなければならない。
***
私と広美は男の好みが似ている。
顔がよくて、スタイルがよくて、少し傲慢なくらい男らしい人。
けれど私達が好きになる人は、大概が女にだらしがなかった。浮気されたり、捨てられたり、散々だ。
一番嫌なのは、好みが似ているゆえに同じ人を好きになった時だ。
幼稚園や小学生時代は、同じ人を好きになる事が同志のように思えて、私達の絆を深めてくれた。
中学でも同じ人を好きになり、広美がその人と付き合いだすまではよかった。
けれどその男が私に告白してきたのだ。好きだったから、広美より自分を選んでくれたのかとうれしくて付き合いはじめた。だけど、広美と別れたわけではなかったと後で知った。
もちろん私と彼のことが広美にバレて、大喧嘩をして、彼はさっさと私達を捨てた。
惨めだったし、つらかった。喧嘩していることも忘れて、二人で馬鹿みたいに夜通しやけ食いをした。
それからも、同じ人を好きになったり、私の彼氏を広美に取られたり、広美の彼氏を私が取ったりした。別にお互い取ろうとしたわけではなかったけど、なぜかそうなってしまった。
広美が大阪の大学に行って、これで同じ人を好きになる可能性は減ったと安心しあって、一つの決まりをもうけた。
――自分の好きな人や彼氏は紹介しない。
絶対ルールだ。
私達が友情を維持しつつ、平穏に恋愛するためには絶対に必要な決まりだった。
お互い好きな人や彼氏の話はする。ただし、バイト先や仕事先といった固有名詞は言わない。もし万が一会ってしまえば、危険だからだ。
要は会わなければ、間違いは起こらない。よって、名前も伏せている。
***
『あのね、彼氏ができたのよ』
そんな広美が、幸せに弾む声で電話をしてきたのは一ヶ月前だ。私はワインをちびちびと飲みながら、広美のノロケ話を聞く。
『同じ東京の人なんだけどね、転勤で大阪に来たんだって』
「転勤? サラリーマンなの?」
広美は私と同じ二十三歳だけど、大学院に進んで歴史を研究している。だからまだ学生だ。サラリーマンと知り合うなんて、バイト先でだろうか。
『サラリーマンよ。一つ上。将来有望みたいね』
甘い声で広美は笑う。
広美は童顔でかわいい顔立ちをしている。声も、高くて甘ったるい。感情表現は豊かで、よく笑うしよく泣くしよく怒る。そこが広美の魅力だ。
反対に私は、顔は人並み。声は低め。感情表現は豊かとは言えず、そっけないとか冷たいとか言われる。
同じ人を好きになっても、自然に男は広美の方に寄っていった。そして、私にも手を出すという浮気性な奴らが多い。
中学生や高校生の時からそんな奴らにばかり惹かれた私達は、男の趣味が悪いとしか言えなかった。
「今回は大丈夫そうなの?」
自慢ではないが、お互いに浮気されなかった経歴はない。
『さあ?』
電話の向こうの広美は正直だ。
『郁のほうはどうなの? 大学生の時から付き合っている人は浮気してない?』
私にしては意外にも、大学一年の秋から四年間付き合っている彼氏がいる。これには広美の方が驚いているくらいだ。
「してないとは言わないけど、大丈夫よ」
『……本当? なにか、グチがあったら言ってね。いつも私ばっかりしゃべってる気がする』
「私は広美の話を聞くのが好きなのよ。どうしても我慢できない時はグチを散々言うから、安心して」
『うん……わかった。無理はしないでね』
広美の心配も無理はない。だって、私の好きになる男の性質を、広美は理解しているのだ。もしかしたら珍しくも浮気性じゃない人なのだろうかと思っているようだけど、心配は心配らしい。
「わかってるよ」
それから十五分ほどして電話を切った。
残っていたワインを一気飲みして、ベットに身を沈める。
「優也……」
そっとつぶやく。
広美の電話で忍び寄ってきた不安を、気のせいだと言い聞かせた。
***
優也は私の恋人だ。
一つ年上で、大学の陶芸サークルで出会った。
このサークルは普段は月に一・二度集まるだけだが、長期休暇にはみんなで釜を使わせてもらえる施設に合宿に行く。その、一年の夏の合宿で私は優也と同じグループになって初めて話した。なんとなく気が合って、秋には私から告白して付き合い始めて今に至る。
今までの自分の恋愛歴を振り返っても、まさか四年も続くとは思わなかった。
つまりは、うまくいっている――ということでもない。
優也は、今までの例に漏れず浮気性だった。四年間で、私が把握しているだけでも二十は下らない。ゆきずりとかを含めたら、もっと多いだろう。私の友達にも手を出していたのは、さすがに目の前が真っ暗になった。
それでも、私から別れを切り出すことはなかったし、優也も別れようとは言わなかった。
浮気されて黙っていたわけじゃない。今までなら、二度浮気されたら好きでも別れてきた。なのに、優也とだけは別れたくなかった。初めのうちこそ怒っていたけど、今はもう怒ることすら虚しくなってしまった。
優也の部屋で、私の物でない女物のアクセサリーや化粧品を見つけることが多い。お風呂の排水溝に、私より長い髪の毛が絡まっていたこともある。さりげなく、けれどこれ見よがしに存在を主張する人もいた。さらには、「別れなさいよ」と綺麗な女の人に因縁をつけられたことも両手では足りないし、嫌がらせを受けたことは数えるのも面倒だ。
どうして、私は別れを切り出せないんだろうと思った時、いつも根底にあるのは「私はちゃんと彼女として優也の横にいる」という自信だ。
たぶん、優也の部屋の鍵を持っているのは私だけだ。二・三日に一度は連絡をくれる。私のことを人前では「彼女」だと紹介するし、実家にも上がったことがある。なにより、四年も続いているのだ。隣にいてもいい存在だと認めていてくれるのだ。
そんな風に考える自分を、哀れだと思う。
それでも好きなのだ。どうしようもなく好きなのだ。傍に、いたい。
そんな優也が転勤したのは四ヶ月前だった。
転勤が決まったことを報告された時、私はただ「そう」とだけ言った。さすがに、このまま連絡が取れなくなって自然消滅するかなと思ったけど、なにも言葉が出てこなかった。
なのに、優也は私に新しい部屋の鍵を送ってくれた。今まで通り二・三日に一度は連絡をくれるし、一ヶ月に一度はどちらかの家に会いに行った。自分でも驚いた。もしかしたら優也は、私が思っている以上に私を好きでいてくれるのかも知れない。そんな夢を見た。
もちろん転勤して離れてから、優也の浮気は激しくなっていると推測している。
電話をしてもぶっきらぼうに切られたり、電話の背後で人の気配がしたりした。電話の向こうで、わざと自分という「女」の存在をアピールする子もいる。私の家に、知らない女の人から電話がかかってくることもあった。正直、うんざりしだ。
優也は私が浮気に気がついていることを知っているだろう。だけど私が口にしないから、向こうも口にしない。ただ、それだけだ。それでもちゃんと、私達は付き合っている。
そんな優也が転勤したのは、広美のいる大阪だった。
***
『彼女が、いるみたいなの……』
夜の九時頃に私から電話をかけたら、その日の広美は第一声から暗かった。私や家族じゃなければ、思わず切ってしまいそうなくらい暗い。そして、私だとわかった途端に『彼女が、いるみたいなの……』ときた。ここ最近は明るいノロケ話とは対象的だ。
なんでも、この前の日曜日に彼の部屋でくつろいでいる時、電話がかってきたそうだ。
携帯を手にした彼は広美から離れてベランダへと出てしまったという。それでも、広美はひっそりと聞き耳を立てるとかろうじて彼の声が拾えたようだ。
彼は苛立ち混じりに冷たく二・三言受け応えしただけだったが、しばらく沈黙があり、最後にはぶっきらぼうながら優しい言葉をかけて電話を切った。
その後、広美は電話の相手を聞いたが「誰でもいいだろ」と不機嫌そうに返されただけだという。
『彼も、今まで付き合った奴らと同じなのかな。……他に、彼女がいるのかな』
徐々に涙ぐみはじめた広美に、私は何も言えなかった。
ただ、「ああやっぱり」と思った。
広美が言う電話の相手は、たぶん私だから。
***
前の日曜日、声が聞きたくなって電話をかけた。すると、妙に機嫌の悪い。『なんか用?』口調は恐ろしく冷たかった。
私は怖気づいて「特に用はないんだけど……」とだけ言った。すると優也は『そう』と言って、沈黙した。もちろん私も沈黙した。
重苦しい沈黙は二十秒ほどして優也が断ち切った。『もう夜は冷えるから、ちゃんと布団かぶって寝ろ』と言うだけ言って電話を切られた。
私は寝ているとよく布団を蹴散らしてしまう。
冬は毎回のように優也に怒られた。怒られたけど、それはとてもうれしいことだった。
夜に布団を蹴散らした私に、肩までかけ直してくれて、翌朝怒られるのだ。私に布団をかけ直している優也を想像すると、幸せな気持ちになる。
離れていても、怒られるだけでその幸せに包まれる。
けれど私は気づいていた。
優也が妙に機嫌が悪かったのは、そこに女の人がいたから。
もう肌寒いというのに、ドアを開いて外に出る物音がした。電話の内容を、その女の人に聞かれたくなかったんだ。
そして広美の話を聞いて、それは確信に変わった。
優也があの時一緒にいたのは、広美だ。
滑稽な偶然。
馬鹿みたいな偶然。
優也の浮気相手は広美。
広美の彼氏は優也。
グチや泣き言を吐き出す広美の声を聞きながら、私はガラス窓を指でなぞった。ひんやりとしていて、なぞった指に水滴が伝う。
もう、駄目なんだ。
口元に虚しい微笑が浮かぶのを感じた。
『郁?』
私の様子に気がついたのか、広美が気遣わしげに名前を呼ぶ。
広美はなにも知らない。
「ううん。ごめん、眠くなっちゃった。また電話する」
『ああ、ごめんね遅くまで。おやすみなさい』
いつものことながら、私達の電話はどちらかが眠たくなればあっさり終わる。
あっさり、終わる。
私と優也もあっさり終わるのだろうか。
四年間の付き合いなんて、ちっぽけなものなんだろうか。
喉の奥が痛い。
視界がにじむ。
私は久しぶりに、泣いた。
***
優也の部屋の前に着くと、私は大きく深呼吸をした。
今日、部屋には広美がいるはずだ。
この前の電話で、広美本人から今日と明日は彼の部屋に泊まると聞いている。だから今日、私は大阪にいるのだ。
部屋の鍵を握りしめる。一度も使ったことのない鍵。
東京にいる時だって、もし部屋の中に誰かがいたらと思うと滅多に使えなかった。けれど今日は、確実に広美がいるはずだ。だから使わない。
確かめるのだ。
そしてそれが事実なら、私は……、
私は、もう優也と別れる。
***
そして、開かれたドアの向こうに広美がいた。
ドアを開くと、郁が立っていた。
郁子。あたしの幼馴染。
……ここは大阪だ。郁は東京に住んでいる。
たとえ郁があたしに会いに大阪に出て来ることはあっても、ここに来ることはない。
だって、ここはあたしの彼の部屋。優也くんの部屋だ。
目の前で、郁は力ない微笑みを浮かべている。
「セールスなら断れよ」
部屋の奥から優也くんの大声がした。
それでもあたし達は見つめ合ったまま動けなかった。
さすがに優也くんも物音一つしないことを不信に思ったのか、ビールを片手に玄関へ顔を出す。
「どうし――」
言いかけた優也くんの言葉が、不自然に止まった。
「郁子」
ああ、そうか。そうなのか。
遅まきながら気がついた。
本当なら、郁がここに来た時点で気がついてもよかったのに。
郁はここにきた。
優也くんは「郁子」と言った。
それはつまり、郁が四年間つき合っていた彼氏が、優也くんだったんだ。
あたし達はまた、同じ人を好きになったんだ。
「なに、しにきた。連絡もなしに」
優也くんはあたしに「邪魔」と言って部屋の中へ押し込めるように背中を押した。
あたしは抗って、郁を見る。
力のない微笑み。悲しい微笑み。
「郁……」
名前を呼ぶだけで、涙が込み上げてきた。
「広美ごめんね、黙ってて」
悲しげな言葉。
郁が、謝る必要なんてない。
だってルールなんだもの。お互いの彼氏を紹介しない、名前も教えないルール。
たとえあたしの話の中から不安を嗅ぎとっても、絶対的な確信もなく話せない。
だから今、郁は確かめに大阪まで来た。
「おいっ」
女二人で見つめ合うあたし達に、優也くんが動揺した声で呼びかけた。
「知り合い、なのか?」
「ええ、広美は私の幼馴染よ」
きっぱりと郁は言い切る。
「話を聞いていると、広美の恋人が優也っぽかったから、確認に来たの」
微笑みを崩さないまま、郁は優也の目をまっすぐと見つめる。
「優也」
静かな声。
「別れましょう」
***
郁は昔から、彼氏のグチは言わなかった。
あたしが泣き言もグチもノロケもなんでも話すのに対して、郁はほんの少し、ポツリポツリと話すだけだ。
だから、あたしは郁に大学時代からの付き合っている人がいることは知っていても、大阪に転勤しているとは知らなかった。
一度も郁は、彼氏が浮気性で困っているとは言わなかった。
いつも曖昧に「大丈夫よ」と言うだけだ。
けれど実際は、浮気ばかりしている優也くん。
しかも、あたしは自分が彼女だと思っていた。
彼も彼女がいないといったし、まさか自分が浮気相手だったなんて気がつかなかった。
一ヶ月ほど優也くんと付き合ったあたしでも、彼が浮気性であることは気がついた。
四年も付き合っている郁が気がつかないはずはない。
たまに部屋から女物の香水の匂いがしたり、口紅のついたタバコが捨てられていたりしていたから問い詰めても、母親が来たんだとか言って誤魔化されてしまう。
優也くんはそんな人だ。浮気を完全に隠しもしないくせに、認めない。最低な人。
それでも好きだと思ってしまうあたしも、とことん救いようがないけれど。
それにしてもおかしい。
郁は二回浮気をされたら、きっぱりと別れてきた。
なのに今回は四年間も続いている。
それはつまり、ずっと一人で耐えていたんだ。
それぐらい好き。
苦しくて悲しくても、耐えていいと思えるほどに、優也くんのことが好きなんだ。
なのに郁は「別れましょう」と言った。
それはたぶん、今回の浮気相手があたしだったからだ。
あたし達の友情が続くための、暗黙のルール。
こういう事態になったら、お互い諦めましょう、と。
***
「ちょっと待て」
一拍遅れて優也くんが反応した。
突然の別れる宣言が、一瞬飲み込めなかったのだろう。
「ひとまず上がれ。話そう」
すこし焦っている姿は滑稽だった。
もう遅い。
もう、郁は決めてしまった。
どんな言葉も届かない。
「いいえ。別れましょう。それ以外に話すことはないわ」
綺麗な微笑み。
悲しい微笑み。
虚しい微笑み。
優也くんが郁の機嫌を取ろうと様々な言葉をかけても、決して揺るがないその微笑み。
頑として別れるという言葉をひるがえすつもりのない郁に、ついには優也くんが怒って「勝手にしろ!」と怒鳴って部屋の中に引っ込んでしまった。
「い、郁」
なんと言えばいいのだろう。ごめんなさい?
「広美は悪くないわ」
あたしに視線を戻すと、郁は少し労わるような笑みを浮かべた。
「広美は優也に彼女がいることは気がついても、それが私だとは気がついていなかったでしょう? 悪く思う必要なんてないわ」
それもそうだ。あたしは、本当に気がついていなかった。
でも、だからといって関係ないとは言い切れない。
「本当に、別れちゃうの?」
四年間もつき合っていたのだ。
四年間も耐えていたのだ。
本当に、別れてしまっていいのだろうか。
「大好きなんでしょう? 今も」
「それでも別れるわ」
そっとあたしの左手を郁がとった。
そして、水色の小さな鈴がついた鍵を、手のひらにのせる。
「また電話するわ」
言葉を残すと郁は、あたしに――優也に背中を向けて帰っていった。
***
しばらくあたしは玄関で突っ立ったままぼんやりとしていた。
ちりん、と手の中で鈴が鳴る。
その音で、我に帰った。
あたしは部屋の中に駆け込んだ。
足元がひんやりする。
さっき優也くんが持っていたビールの缶が中身を撒き散らして床に転がっていた。力任せに、投げたのだろう。
「優也くん!」
ベットでふて寝をしている優也くんを乱暴に揺する。
うるさいと言うようにあたしの手を払いのけて、鋭い目で優也くんがこちらを見た。
「これ、この部屋の鍵なんだよね?」
さっき郁に渡された鈴のついた鍵を優也くんの目の前にぶら下げる。
「郁が、置いていったよ」
「いらない。捨てとけ」
眉間にしわを寄せて言い捨てると、優也くんはあたしに背を向けた。
「追いかけないの?」
追いかけても、意味はないのかもしれないけれど。
郁の心は、決まってしまった。
それでも、一縷の希望にすがりたい。
だって郁は、本当に優也くんのことが好きなはずだ。
確認のためだけに大阪に来るくらい、好きなはずだ。
「部屋の鍵、あたしにはくれなかったよね? 他の人にもあげなかったんじゃないの? 郁だけに、あげたんじゃないの?」
背中に問いかける。
瞬きすると涙がこぼれた。
「郁は、彼はこまめに連絡をくれるって言ってたわ。あたしにはたまにだよね? それはつまり、郁の声が聞きたいからじゃないの? 四年間も付き合っていたんだよね? それだけ、傍にいるのが自然な存在なんじゃないの!」
だんだん声が大きくなる。
体中を駆け巡る、自分でも整理のつかない感情が吐き出される。
「郁が好きなら追いかけなさいよ!」
郁は、泣いたのだろうか。
優也くんを想って、泣いたのだろうか。
***
郁はめったに泣かない。
あたしなんて勝手に涙が出ていつも泣いているのに、郁が泣いている姿は小さい頃からあまり見たことがない。
だからこそ、郁の涙は印象的だった。
あれは小学二年生の時だ。
帰り道、二人して野良犬に追いかけられた。
後から思えば、その犬は怒っていたわけでもないし、尻尾を振って「遊んで」と寄ってきたんだけど、あたし達は怖くて逃げた。逃げたら、そういう遊びなのかと思って、追ってきた。
走って走って走って、ついには行き止まりにたどり着いて、あたしは郁にしがみついてわんわん泣いた。
すると郁は、あたしを背後にかばって、追いかけてきた犬を睨みつける。
犬はトコトコとあたし達の傍に寄ってこようとしたけど、背中からでもその決意がわかるほどのオーラを放っていたから、犬もためらうように足踏みし、ついには残念そうにお尻を向けて去っていった。
完全に犬が見えなくなるまで、郁は正面を向いて威嚇した。そして、完全に見えなくなると、その場にペタリと座りこんで、肩を振るわせる。
あたしは背中から正面に回って、郁の顔を除きこんだ。
郁が、歯を食いしばって泣いていた。
声も立てず、泣いていた。
あたしはびっくりして涙が引っ込んだ。
そして、ぎゅっと郁を抱きしめる。
「ごめんね郁ちゃん。怖かったよね。ありがとう。ホントにありがとう」
何度も何度もお礼を言って、郁が泣き止むまであたしは郁を抱きしめた。
郁は優しい。
怖くても、自分よりもあたしを守ってくれようとした。
優しいけど、いつも強がる郁は痛々しかった。
あたしが強くなって、郁を守るんだと何度も思った。
だけど、今まで恋愛のいざこざで郁もあたしも傷つき傷つけてばかりだ。
修羅場に陥ると、最初に折れるのは郁だ。
「ごめんね」と言って、あたしを慰める。
自分だってたくさん傷ついているのに、あたしを慰めて、受け止めてくれる。
守られてばかりだ。
今回もまた、守られた。
郁は一言もあたしを非難しない。
理不尽であっても、郁はあたしを責めていいはずだ。
責めて、泣いて、怒って、感情をぶつけてくれればいい。全部吐き出してくれればいい。
受け止めるから。今度はあたしが、受け止めるから!
***
「郁は、郁は、」
言葉にならない。
こぼれる涙を拭って、なにかを言いたいのに、言葉にならない。
「出ていけ!」
乱暴に枕を投げつけられた。
「郁を追いかけて……」
「さっきからごちゃごちゃうるさい。お前だって俺と付き合ってたんだろ? お前だって友達を裏切ったんだろ? 同罪なんだよ! 黙れ!」
もっともだ。
だけど、あたし達はそういう局面に何度も直面している。それでもあたし達は友達をしているんだ。
そして今回は、完全にあたしは優也くんの彼女が郁だとは知らなかった。郁もそれを知っている。だから、あたし達はまだ友達でいられる。
「優也、彼女はいないって言ったよね? だから告白したのよ。郁は彼女じゃないの?」
「――彼女だよ」
「だったら!」
あたしは優也くんに投げつけられた枕を、今度は優也くんに投げつけた。
「優也くんが彼女って認めているのは、郁だけ? だったらなんで苦しめるの! なんで浮気ばっかりするの!」
「関係ない」
「郁は弱音を吐かない。その分、ちゃんと見ててあげてよ! あたしも……自分のことばかりで気がつけなかったことがくやしいよ!」
気づかなかった。
気づけなかった。
いくら何も言わないからって、おかしいと思ったら問い詰めればよかった。
あたし達の惹かれる男の性質を、理解していたはずなのに!
「郁は決めちゃったんだから、もう優也くんのとこには戻ってこないよ! こうと決めたら郁はてこでも動かないんだから!」
テーブルに置いてあった雑誌を投げつける。
「意味はないかもしれないけど、散々郁を傷つけたんだから、ちゃんと謝れ!」
足元に転がっていたビールの缶も投げつける。
「好きなら追いかけろ! 馬鹿!」
叫ぶだけ叫んで、あたしは優也の部屋から出て行った。
優也がどうするか、見届けることはできなかった。
だって、あたしだって好きなんだもん。
最低な奴でも、好きなんだもん。
見届けるのは、つらいよ。
見届けることはできないけれど、あたしができるせめてもの償い。
わめき散らしただけだけど、少しでも郁の苦しみを伝えられたかな?
うるさい音を立てて広美が出ていくと、俺は携帯を取り出した。
発信履歴の一番上にある郁子の名前を選択して、電話をかける。
……。
…………。
………………出やしねぇ。
三十分後もう一度かけてみたけど、やっぱり出なかった。
強情な奴。
イライラして携帯を投げ捨てる。
それにしても、まさか広美と郁子が幼馴染だとは知らなかった。
ここは大阪だし、気がつかないって。
こんな偶然ってあるんだな。
広美とは居酒屋で知り合った。
小さな居酒屋だ。気にいって頻繁に通っていると、そこの常連だった広美と話すようになった。
酒が強い広美と、朝まで飲み明かしたこともある。
そのうち広美の方から告白してきて、俺達は付き合いはじめた。最も、俺にとっては浮気の一つでしかなかったのだけど。
可愛い顔をしているし、くるくると表情が変わる広美がおもしろくて、会うことが多かった。大阪では一番彼女らしい奴だ。
俺が感情表現豊かな広美を気に入ったのには理由がある。
感情をあまり表に出さない郁子と対象的だったからだ。
そもそも、俺が浮気をしても何のリアクションもしなかったのはどうかと思う。
郁子だって最初のうちは怒ったりしていたんだ。なのに少ししたら何も言わないし表情も変えなくなった。
浮気に気がついていないのかと思えば、ちゃんと知っているらしい。
俺が誰と付き合おうと寝ようと気にならないんだな、とムカついて、浮気は激しくなった。
郁子と会わない日は、別の女と一緒にいたと言ってもいいくらいだ。
それでも郁子は、何も言わなかった。
――「郁は弱音を吐かない。その分、ちゃんと見ててあげてよ!」
さっきの広美の言葉は少し堪えた。
やっぱり、我慢していたのだろうか。
なにも言わないだけで、苦しんでいたんだろうか。
なんで俺は郁子と四年間も付き合っているのだろう。
今までの最長は四年じゃなくて四ヶ月だったんだぞ?
なんで、こんなに郁子と一緒にいたんだろう。
三日も声を聞かないと不安になった。
週に一回は会わないと怖かった。
転勤で月に一回しか会えなくなると、たまに会った時には離したくなくなった。
会えない間はイライラする思いを持て余して、女を呼び出したり引っ掛けにしに行った。
それでも、郁子に会わないと気持ちは晴れなかった。
馬鹿みたいだ。
俺はそれなりにモテるし、一時の関係なら女にことかかない。だから、郁子が傍にいようともあっさりと浮気した。
別に罪悪感はなかったんだ。ただ、怒る郁子が見たかったんだ。
あんまり感情を表に出さない郁子が怒った時、驚いたけどうれしかった。だから、また浮気した。やっぱり郁子は怒った。
何度目からだろう。郁子が浮気をしても怒らなくなったのは。たぶん四度目にはなにも言わなくなったはずだ。
俺は拍子抜けしたし、意地にもなった。郁子を怒らせたかった。
これ見よがしに部屋に他の女のイヤリングを残したりしたのは俺だ。他の女の影をちらつかせて、怒らせようと思った。
なのに、郁子はそれを見つけると、俺がいつも車や家の鍵を入れている玄関の箱の中に入れた。今度その女が来た時に、すぐに気がつくように。
怒ったり嫉妬するどころか、ちゃんと相手の手元に物が返るように気をつかってやがるんだ。
他にも、郁子にだけ許していることがある。部屋の合鍵だ。
他の女がいくら合鍵が欲しいと言おうとも、郁子以外にやるつもりはなかった。郁子だけが持っていればよかった。
なのに、郁子は東京にいた時から俺の部屋の鍵を持っていてもチャイムを鳴らした。
勝手に入っていいと言っても鍵を使わない。
使うのは、食事の用意を頼んだ時に俺がまだ帰っていない時ぐらいだ。
大阪のこの部屋では、一度も使っていない。
郁子が何を考え、思っているかわからなかった。
郁子は何も言わなかった。
俺は郁子が感情をむき出す姿を見たくて、どんどん浮気をエスカレートさせていった。
――「郁は決めちゃったんだから、もう優也くんのとこには戻ってこないよ!」
戻ってこない。
もう、戻ってこない?
郁子が? 俺のところへ?
そんな馬鹿な。
郁子はずっと傍にいたんだ。
郁子がいなくなるはずない。
本当に?
――「別れましょう」
微笑みながら静かな声で言い放たれた言葉。
――「別れましょう」
郁子は、俺と別れたいと言った。
――「別れましょう」
郁子は、もう戻ってこない。
俺は携帯と財布を掴むと、家を出た。
そのまま駅に向かい、新大阪から新幹線に飛び乗った。
***
郁子の部屋に着くと、もうあたりは真っ暗だった。
けれど、まだ帰ってきていない。
あのまますぐに新幹線に乗ったんなら、とっくについているはずだ。
まさか大阪で一泊してから帰るのか?
俺はポケットから郁子の部屋の合鍵を取り出すと、勝手に部屋に上がった。
いつものことながら、郁子の部屋は綺麗に整頓されている。
本は系統別に並べられ、CDはアーティスト別にきちんと分類され、新聞はまとめて縛ってあった。
郁子の部屋だ。
郁子の匂いだ。
ベットに身を沈めて目を閉じる。
ここは、安心できる。
***
結局、郁子は翌日の昼過ぎに帰ってきた。
俺は勝手に冷蔵庫から食べ物を拝借して、昼飯を食べたところだった。
「優也……」
突然俺が部屋にいるというのに、たいして驚いた反応は見せずに俺の名前を呼ぶ。
「遅い。どこ行ってたんだ」
イライラして怒っている場合じゃない。なのに出てきた言葉はそんなものだった。
「……美術館行って、広美のところ行って、泊まって、帰ってきた」
広美? あんなことがあった後に、広美のところ行ったのか?
そもそもあいつ、俺に追いかけろって言ったくせに、なんで郁子と一緒にいるんだよ。
「美術館は特別展示をしていて、ゴッホの絵とか見た」
いや、それはどうでもいいから。
「展示は全体的に暗めの絵が多くて、好みじゃなかった」
ホントどうでもいいから。
「なんで広美のところ行ったんだ」
ともかく、こっちから質問しないと話が進まない。
「……広美が、泣いていると思ったから」
そういえば、俺を怒鳴りつけながら泣いてたな。
「広美が私の分まで泣いてくれるから、一緒にいてあげたいの」
広美が郁子の分まで泣いてくれる?
それはつまり、郁子は泣きたかったのか?
でも泣けないから、広美が郁子の分まで泣いて、泣いて、泣くのか。
「広美が怒ったんだってね。もしかしたら私の部屋にきているかもしれないって言ってたよ」
ああ、広美があらかじめ伝えていたから、俺がいても驚かなかったんだな。
――それにしても。
さっきから、郁子はいつも以上に感情が見えない。
少し垂れた目は俺を向いているのに、どこか遠くを見ているようだ。
表情は完全に欠落しているし、肌は青白い。
声は静かというより機械的。
「なにしにきたの?」
やっぱりムカつく。
「なにしにきたじゃねぇよ!」
俺は乱暴に郁子の肩を掴むと、正面から目を睨みつけた。
「突然別れるなんて言いやがって。誰が別れてもいいなんて言った!」
別れるつもりはない。
手放すつもりはない。
「別れたの。帰って」
郁子の唇はそんな風な言葉を紡ぐ。
「帰って」
聞きたくなくて、唇を唇で塞いだ。
かすかに、郁子が抗う。
けれど、力任せに振りほどこうとはしない。
「もう、しないから」
唇を離すと、耳元でささやいた。
「なにを?」
「だから、浮気を」
「……無理よ」
確かに、無理かもしれない。
でも郁子がやめなければ別れるというなら、やめる。
「広美とだったから、怒ってるのか?」
今までは浮気しても別れるとは言い出さなかった。
やっぱり、広美だったからそんなことを言いだしたのか?
「それもあるけど……あなたが私の友達に手を出したのなんて、何人目?」
……六人目。
「だから、もうしないって」
「もう遅いよ」
郁子は俺から離れると、テーブルの上に転がっていたこの部屋の合鍵を手に取った。
「これももう、いわないわね」
「いる」
「いらないのよ」
言って、郁子は合鍵をゴミ箱に捨てた。
「なにするんだよ!」
俺がゴミ箱から鍵を取り出そうとすると、郁子がそれを妨げる。
「どけ!」
「もういらないの」
「いるんだよ!」
「いらないわ」
「郁子!」
「帰って」
「郁子、いい加減に――」
「帰って!!」
絶叫した。
郁子が、絶叫した。
頬を上気させ、瞳を潤ませ、体を震えさせて、絶叫した。
「帰れ帰れ帰れ! 別れたんだ! 帰れ!」
潤んだ瞳からは、瞬きした途端に涙が零れ落ちる。
俺がはじめて見た、郁子の涙。
思わず、濡れた頬に手を伸ばした。
「帰れ、帰れ……」
すぐに声はしぼんでいく。
「帰って……もう、別れたのよ……」
郁子の頬は、温かかった。
怒った顔も、泣き顔も、愛しかった。
「お前、俺が好きだろ」
郁子の顔が歪む。
「好きよ」
その言葉一つで、胸が満たされた。
「でも、」
しかし続く言葉は俺を斬りつける。
「もう駄目。耐えられない」
郁子は頬に触れる俺の手を、そっとはずした。
「好きだからって、何でも受け入れることはできないのよ。もう、嫌なの。もう、楽になりたいの」
――楽に?
俺には何も言えなかった。
言えるはずもなかった。
***
失ってから知った、郁子が一人で崩れていっていたこと。
知った時には、もう遅すぎた。
そして、俺は郁子と別れた。