たとえ二度と会えなくても 再会

掲載日:2011-10-09

 両手いっぱいに返却された本を持ち、棚になおしている時だった。文芸書の本が並ぶ棚の前で、懐かしい姿を見た。
「叶」
 反射的にその人の名前を呼んだ。すると真剣に本の背表紙を眺めていた女性が、驚いたように俺を見る。目をパチパチさせて立ち竦んだ昔恋した人は、見違えるほど成長していた。うっすらと化粧をしていて、長くなった髪はやわらかなウェーブを描いていて……。
「晴彦、だよね」
 けれど変わらないその声。俺の名前を呼ぶ、その響き。
「久しぶり」
 柔らかく笑った叶に、泣きたくなった。その胸元にいまだ輝くのは、深い緑のペンダント。俺に別れを告げたその時にも大切に握りしめていた、奴からもらったらしいペンダント。
「……ぷっ」
 いきなり叶が吹き出した。そのまま肩を震わせて、笑いを堪えている。なにを笑われているかわからなくて、戸惑った。
「似合いすぎっ。なに? 図書館司書になったの?」
 やっと理解した。叶は、エプロンつけて名札をつけて、本を抱え込んだ俺の姿に笑ったのだ。司書の仕事真っ最中の姿を見て。
 俺は叶と付き合っていた高校時代、俺は三年間図書委員をしていた。大学を卒業した今は、図書館で司書として働いている。司書への就職は難しいと言われる中、卒業と同時に司書としてもぐりこめたのはとても幸運だった。しかしまあ、五年ぶりに会う叶には、高校生の俺とあまりに変わらない姿がおかしかったのだろう。
「笑うなよ。……叶は今なにをしてるんだ?」
「まだ学生。院に通ってるのよ」
 笑いを引っ込めた叶は、照れくさそうに言った。確か叶は国文学科に進学したはずだから、院まで進むのはけっこう珍しい。
「浄瑠璃とかの演劇を研究してるの」
 そう言いながら、叶は胸元のペンダントを指でいじる。たぶん無意識であろうその行為が、妙に癇に障った。
 叶に別れを告げられたあの日から、もう五年が経った。俺はその間に一人の女の子と付き合ったりしたし、叶への想いは過去へと眠りについたと思っていた。彼女の可愛らしい笑顔も生き生きとした行動も、好きだった。けれど、どうしても熱を持てなかった。好きだと感じたし、一緒にいることは確かに安らぎだった。それでも薄い膜に覆われたように、どこか馴染まなかった。何かが違うと思った。それに彼女は気がついて、俺の隣に在り続けることをやめた。
『晴彦君って、誰を想っているの?』
 寂しそうに問われ、思考が完全に停止して何も言えなかった俺は振られた。そして改めて自覚した。叶が好きだ、と。月日が経っても、この想いが色褪せても、未練がましい執着が俺の中に確かにあった。そして、いまだ奴からもらったペンダントを身につけ、無意識に触れる叶も、フーガという奴のことを想ってる。想い続けている。叶を引き止められなかったあの日から俺たちの間に横たわる、フーガという名の決定的な壁。
「今日ヒマ? 晩御飯でも一緒に食べないか」
 軽い苛立ちが頭を支配した一瞬で、俺はそんなことを口走っていた。叶は戸惑ったように瞬きを繰り返す。――自分を罵りたくなった。馬鹿みたいな嫉妬が、こんなことを口にのぼらせた。そのペンダントをくれた奴とは二度と会えなくても、俺はいつだって会える場所にいると叫びたかっただけだ。
 それでも口に出したからには引き下がれない。俺はなるべく自然な笑顔を浮かべて、明るく言った。
「恋人はやめても友達まで辞めたつもりはないからな。久しぶりに話してもいいだろう」
 すると叶の目元も、柔らかく下がる。
「そうだね。あたしも晴彦の友達辞めたつもりはないわ」
 今日は土曜なので五時に図書館が閉まるから、雑用を入れても六時半には駅に行ける。それまで適当に時間を潰していてくれと言った。
 すると叶はサラサラと紙に自分の携帯番号とアドレスを書いて、仕事が終わったら電話してと言ってくれた。それを受け取って、俺は仕事に戻る。抱えていた本を棚に戻し終えてカウンターに戻ると、仕事仲間が「あの子は彼女?」とからかってきた。笑って「違います」と言ったものの、くすぶりが腹の底でうごめくのがわかった。
 近づけば、沈黙していた想いが頭をもたげてしまう。話せば、過去に変えようとした想いが膨れ上がってしまう。それでも、叶の傍にいたかった。話がしたかった。もうあの頃の俺とは違う。叶を失いたくなくて足掻いて足掻いて何もできなかった俺とは違う。
 だからこそ、もう一度踏み出そう。叶がいまだ二度と会えない奴を想うとしても、もう遠慮なんてしてやらない。捨てられなかった想いを、俺自身の想いを、今度こそ大切にしよう。
 怖がっていられない。ためらっていられない。あの時みたいな悔いなんて残らないように、俺は俺の意思で叶にもう一度歩み寄ろう。叶と描けるかもしれない未来を、夢で終わらせないために。

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