たとえ二度と会えなくても 6

掲載日:2011-10-09

 静かだ。窓から差し込む日差し。風に揺れるカーテン。コップの中で氷がぶつかる音。本のページをめくる音。そして、ゆっくりと本を読むフーガの横顔。
 今日は仕事が休みで、フーガも学校が休み。だから朝からリザさんの家にフーガはやってきた。けれど、リザさんは昼過ぎから友達の家に出かけてしまい、今はフーガと二人きり。居間であたしもフーガも本を読む。
 この前ラサエルさんが、新たな本を持ち帰ってくれたから、まだまだあたし達が読んでいない本がたくさんある。フーガは学校で他国の言語を学んでいるだけあって、他の国の本を楽しそうに読んでいる。あたしはなんとかディルレイラの言葉が読めるだけだから、そこまでは無理だ。それでもリザさんの本は読みやすい小説が多くて、あたしでもなんとか大丈夫。
 カラン、と氷が鳴る。机に置いたコップには、氷をいれたアイスコーヒー。そろそろ熱い飲み物よりも、冷たい飲み物がほしくなる季節だ。まあ、フーガはいつだって冷たいかぬるめの飲み物しか飲まないけど。熱い飲み物が出てきたら、冷めるまで手をつけない。なんでも小さい頃に熱いお茶を飲んで、口の中を火傷してから駄目になったらしい。フーガって、変なところでドジだよな。
 開け放たれた窓。部屋に涼しげな空気を送り込む風。昼には窓を開けたくなる気候になった。もうすぐ夏が来る。その夏が過ぎればあたしがここに来てから一年が経つ。夏が過ぎて寒くなり始めた頃に来たから、夏が過ぎれば一年。
 あたしは初めから、ずうずうしかったな。拾ってくれたフーガとリザさんに、なんとか衣食住を提供してもらおうとしていた。こちらのことを教えてもらって、仕事までお世話してもらって。
 二人がいい人でよかった。この街がいい街でよかった。あたしはここで幸せに暮らしている。帰りたいと泣きたくなる時もあるけれど、今を幸せだと感じるのも本当。
 本を読むフーガの横顔。晴彦も、こんな横顔で本を読んでいたな。重なる二人。重なる想い。もう指にはない銀の輝き。あたしの胸元に輝く深緑の輝き。
 ああ、晴彦に会いたい。だけどフーガと離れたくない。矛盾。矛盾矛盾矛盾矛盾矛盾っ。それでも――。
「フーガ」
 声をかけると、フーガは本から顔を上げた。鼓動が高鳴る。頬が熱くなる。
 いつの間にかあたしの右手は、胸元に揺れるフーガにもらったペンダントを握りしめていた。手の中の深緑の輝き。深緑の瞳の中のあたし。呼びかけて、なにも言わないあたしを不思議そうに見つめるフーガ。
 視線を彷徨わせたあたしは、フーガのシャツのポケットからのぞくチェーンに目をとめる。あたしがあげた時計のチェーン。時を刻む時計。フーガへの想いの、証。指輪を手放したのはなんのため? けじめを、つけたのでしょう? しっかりしなさい、あたし。
 ぐっと瞳を閉じた。そして開くと同時に、言った。
「あたし、フーガのことが好き」
 フーガの手から本がバサリと落ちる。
「ずっと、フーガと一緒にいたい」
 穏やかに流れる時間を、あなたと過ごしたい。フーガは何も言わなかった。あたしは黙って答えを待つ。
「――会えないんだぞ」
 絞り出すようにフーガは呟いた。会えない。晴彦に。あたしの、いとしい人に。
「いいの。会いたいけど、帰りたいけど、そうしたらもうフーガには会えない。それは嫌なの」
 それだけは嫌なの。晴彦の時みたいに、突然会えなくなるのは嫌。こんなに大好きになったのに、フーガに会えなくなるのは嫌。もう、あんな想いをするのは嫌。
「本当に?」
「本当に」
 それをあたしは選んだから。考えて考えて、迷って迷って、あなたと共に過ごす時間を選んだのだから。次の瞬間、腕を引っ張られてフーガの腕の中に収まった。強く抱きしめて、囁くようにフーガは言う。
「よかった……」
 あたしの帰りが遅くて、心配して探し回ってくれたあの日。フーガがルーシーさんに言った『カナエが自分の国に帰ってしまったのかと思ったんです』の言葉。フーガの不安を知った。あたしの不安を知った。
 しがみつく。離れない。離れたくない。だからお願い。もう、あたしから何も奪わないで。叶えてほしいことはひとつだけ。フーガとずっと一緒にいさせて。ただ、それだけなのよ。

     ***

 レポートが入った袋をぎゅっと抱きしめて視線を彷徨わせる。予想よりも人通りが少なくて、これからどう進めばいいのか聞ける人がいない。初めて足を踏み入れた、あたしが知らないフーガの世界。
 学院の中に入るのは、警備員さんに声をかけるだけで特に問題なく進めたけど、肝心のフーガがいる場所がわからない。こういう時、携帯があればなぁと切実に思う。
 あたしがフーガに会いに学院までやって来た理由は簡単だ。昨日リザさんの家に泊まったフーガが、珍しく忘れ物をしていったから。袋にきっちり納められたレポート。確か今日の提出だと言っていた。
 フーガのことだから、提出日に忘れるなんて耐えがたいだろう。真面目だし。……ああ、本当にどこに行けばいいのだろうか。リザさんは「行ったらわかるんじゃない?」と投げやりで、頼れない。というか、リザさんだって知らないのだろう。しばらく案内板の前で悩んでいたけど、あたしは幸福だった。視界の端に学生らしき人物を捉えることができたのだ。
「あのっ!」
 もちろんチャンスは逃さず、大声で呼びかける。相手は驚いて足を止めて振り返った。
「……嬢ちゃん?」
 ものすごく幸運だった。呼び止めた人物は、間違いなくコニーさん。あたしも知っている、フーガの友達。
「フーガの忘れ物を届けに来たんですけど、居場所わかります?」
 目をパチパチさせていたコニーさんにかまうことなく、一気に要件を告げる。せっかくコニーさんに会えたのだから、遠慮する必要はない。彼を逃せば迷子になってしまうことは必至だし。
「フーガが忘れ物? へぇ珍しいな」
 そうか、やっぱり珍しいのか。まあ、今朝のフーガは仕方ない気もするけど。ふいにコニーさんは唇を歪めた。焦ったフーガを想像しておもしろがっているのかもしれない。
「でもなんで嬢ちゃんが持ってくんの?」
「昨日はフーガ、リザさんのところに泊まったので」
 昨日は学院で仕上げたレポートを持ったまま家に訪れた。すぐに帰ろうとしていたけど、リザさんに乗せられてお酒を結構飲んだから、潰れてしまったのだ。
「潰れるほど飲んだのか? そりゃまた珍しいな」
 これも珍しいのか。そういえば、フーガってあんまりお酒は飲まなかった気がする。飲みはするけど、自分で飲む量を抑えている印象があった。
「あいつ、あんまり酒に強くないんだよ。ついでに酔うの嫌いだし。まあ、酒癖は悪いって訳じゃないけどな。すぐに眠るから連れて帰るのが面倒なんだよ」
 ……すぐに眠るのか。確かに昨日は、唐突にテーブルに突っ伏したからな。さすがにベットまで運ぶのは無理だったから、ソファーに寝かせて毛布を掛けただけだ。
「今朝は二日酔いで気持ち悪そうでした」
「それはおもしろいな」
 うん。おもしろかった。起き出たと思ったらソファーに寝ていて驚いたらしく転げ落ちたし、ついでに頭痛がひどいらしく頭を抱えてうずくまっていた。で、時間に気がつくと大急ぎで学院に向かったのだ。相当慌てていたらしく、忘れ物をしたのだけど。今日、仕事が休みで本当によかった。愉快なものが見れたし、フーガの通う学院に来ることができたし。
「じゃあ、行こうか。たぶんまだ教室にいると思う」
「コニーさんも同じ授業だったんですか?」
「いや違うよ。俺、その授業は取ってないんだ」
 話しながら、階段を登ってずんずん進む。日本の高校くらいの広さみたいだけど、さすがに一人でこの教室たちの中からフーガのもとに向かうのは無謀だった。コニーさんに会えてよかったよ。
「いるみたいなだ」
 人の声らしきものを聞きつけ、コニーさんが笑った。そして目的地らしいドアに手をかける。
「う、わ! すいませんっ」
 コニーさんがドアを開くより先に、中から開いて人が飛び出してきた。衝突は免れたけど、驚いたコニーさんは硬直しているし、飛び出してきた人も停止した。
「……なにやってんの、フーガ」
 コニーさんの後ろにいて、状況をしっかり把握できたあたしは呆れ気味に問いかけた。
「え? カナエ?」
 飛び出してきた人――フーガは、ものすごく訝しげな表情を浮かべた。すぐに立ち直ったコニーさんは、フーガのすねを軽く蹴って「驚かせんな」と悪態をついてから、あたしを教室に招きいれた。大人しく従ってフーガの横をすり抜ける。フーガだけがいまだ混乱状態で立ち尽くしていた。
 中に入ると、教室にいたフーガの学友に質問攻めにあった。丁寧に「フーガのお姉さんの家にお世話になっているカナエです」と自己紹介をしたのに、コニーさんがわざわざ「フーガの彼女」と付け加える。彼女というのは本当だ。つい数週間前からだけど。それにしても、どうせならフーガに彼女だって紹介されたかったな。フーガの性格からして、無理だろうけどさ。
「クロスレットに彼女! 噂には聞いてたけどホントにいたんだ」
「女を呼び捨てにしてるの、はじめて聞いた」
 等々、何気に反応に困る感心のされ方をしてしまった。フーガって、学院ではどんな印象をもたれているんだろう。
「こいつら付き合い始めたの、つい最近なんだぜ。俺がはじめて嬢ちゃんを紹介された時にはもう好きだったぽいのに」
 コニーさんが勝手に私達をネタにして話し出した。
「フーガがタメ口使っているのに驚いた嬢ちゃんが、『敬語やめてくれなきゃあたしも敬語やめません』って言ったら、あっさり『やめる』とか言いやがるんだぜ!」
 ……それって、よく驚かれるけど本当に珍しいことなのだろうか。そう思ったけど、そこにいた面々の反応は爆笑や悲鳴と表現は様々だが、驚いていることは確か。
「あっさり! 俺が敬語やめろって言っても『嫌です』の一言で切り捨てるのに」
「だろ? だからてっきり嬢ちゃんのことが好きだと思ったんだけど、フーガの奴にぶいから自覚なさそうでさあ」
 学院でも、コニーさん以外にはみんな敬語で話しているらしい。話によればコニーさん以外にもいるにはいるらしいけど、どれも中等学校時代の友人で今はここにいないとのことだ。どうでもいいけど、フーガったら遊ばれているぞ。
「……コニー」
 いつの間にかフーガがコニーさんの襟首を掴んでいた。やっと我に返ったらしい。
「あー怒んなよ。本当のことで」
「……君とは一度、ちゃんと話す必要がありそうだ」
 明らかにお怒りモードだ。滅多に見れないものだし、傍観者だとむしろおもしろい。
「それより、忘れ物取りに行かなくていいのか?」
 襟首を掴まれたまま、コニーさんは明るく尋ねた。それに対して、フーガはぱっと手を離す。顔色が悪くなった。まだ二日酔いが直らないのだろうか。
「なんで知ってる」
 苦虫を潰したようなフーガの表情から、さっき勢いよく教室から飛び出してきたのは忘れたレポートを取りにいこうとしたのだとわかった。だからあたしは「はい」とレポートの入った袋を差し出す。
「忘れ物」
「……。あ、ありがとう」
 素直に受け取ったフーガは、途端に目を輝かせた。よほど忘れたのが悔しかったのだろう。が、コニーさんはフーガをからかう手を緩めない。
「こいつ、昨日は嬢ちゃんの家に泊まってそのまま来たんだって」
「姉さんの家に泊まったんだっ」
 微妙に誤解を招きそうな発言に、フーガは間髪いれず口を挟む。昨日はリザさんに乗せられたとはいえ、人様の家で酔い潰れたのだからプライドが傷ついたみたいだ。
「まあそういうことにしといてやるよ」
「……」
 今回は完全にコニーさんの一人勝ち。本当に、コニーさんにからかわれるフーガはおもしろいなぁ。
「行こうカナエ」
 不利なフーガはさっさとこの場から退散することを選んだみたいだ。荷物を手に取ると、あたしの腕を掴んで教室から出て行く。後ろから笑いが追いかけてきたけど、こんな風に学生やっているフーガは新鮮だ。コニーさん以外の友達といるところって見たことなかったし。それに、そっとフーガの顔を覗き込めばほのかに赤い。動揺したフーガって可愛いなあ。
「教授にレポート提出してくるから、少しここで待ってて」
 いつの間にか研究室の前にやって来ていたらしく、フーガはいそいそと入っていった。残されたあたしは、壁に背を預けてぼんやりとする。すると中からフーガと教授らしい人の声が聞こえてきた。
「ああ、急がなくてもよかったのに」
「いいえ。提出は今日ですから」
「それにしても、君が忘れるなんて初めてじゃないか」
「……ええ、まあ、その」
 教授にも言われてるわ。ホント珍しいんだな。つまりはフーガの場合、一日くらい遅れたってたいしたお咎めはないのだろう。急がなくてもいいって言っているし。
 その後も少しだけ話してから、フーガは「失礼しました」と出てきた。そして二人並んで校内を歩く。授業中なのか、もともと人が少ないのか、人通りのない廊下は静かだ。あたしとフーガの足音が響いた。
 フーガと付き合いはじめて、なにが変わったというわけではない。今までと変わらずに二人で勉強したり、話したり、本を読んだりしている。それでもどこか、甘やかな空気が生まれた気もするんだよね。フーガと一緒にいることがうれしかった。フーガが想ってくれることがうれしかった。
 それでも、今は引き出しの奥に眠る銀の指輪を嵌めていた左手の薬指に、無意識に触れてしまうことがいまだにある。いくらフーガを選んだとしても、晴彦への想いは消えはしない。切なさに泣いてしまう夜もある。いとしさに叫んでしまう夜明けもある。晴彦に会いたい。フーガと共にいたい。矛盾する想いを今なお持て余してしまう。
「カナエ?」
 だけど呼びかけられるともうだめだった。この人と離れることなんて考えられなかった。フーガと共にいることを選べるなら、他の大切なものを手放してもかまわない。激しい痛みに苛まれても、今あたしが選びたいものはフーガだ。フーガと生きることだ。晴彦との思い出をこの胸に眠らせて、あたしはここで生きていく。
「フーガ、あのね」
 話しかけると深緑の瞳にあたしが映った。――ああ、あたしはここにいる。

     ***

「おかあさん」
「なあに」
「あたしのなまえにはいみがあるの?」
「あなたの大切な願いが叶いますようにって意味なのよ」
「ねがい?」
「そう、願いよ。心の底からの強い願い」
「あたし、こころのそこからゆうえんちにいきたいよ」
「そういう願いじゃなくてね、もっとずっと強い願い。
 いつかあなたも叫びだしたいほどの願いを持つかもしれない。その時、あなたの願いが叶いますように――」
 叶。それがあたしの名前。
 両親が離婚したのは、あたしが小学三年生の時だった。お父さんが他の女の人と子供を作って、離婚したいと言ってきたという。浮気され、あげくの果てに子供までつくられ、自分を捨ててその女の人と結婚する。お母さんにとっては屈辱的な裏切りだったのだろう。あたしを抱きしめて、お父さんへの恨み言を言ったり泣いたりしていた。
 結局はお母さんがあたしを引き取り、お父さんに大学を卒業するまで養育費を出させることで妥協し、離婚した。もともとお母さんは働いていたから、あたしの養育費さえもらえれば二人でささやかな生活を送ることのできる収入があった。
 お父さんは、お腹の大きな女の人と出て行った。そんなお父さんに「行かないで」とすがりつき、お母さんには「お父さんはどこに行くの」と泣きついた。
 行かないで。離婚なんかしないで。何度も何度も思った。何度も何度も願った。叶。この名前は、あたしの願いを叶えてくれるんじゃないの?
 叶えてください。お願いだから叶えてください。叫んだ。けれど父は帰ってこなかった。願いなんて叶わなかった。お母さんとお父さんが離婚した時も、そして今も――。
 ねえ、叶えてよ。心の底からの強い大切な願いよ。何を引き換えにしてもいいと思えるくらい、切実な願い。会いたいの。会わせてよ。ねえ、願いを叶えてよっ!

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