たとえ二度と会えなくても 5

掲載日:2011-10-09

 ケーキとチラシ寿司は好評だった。今日も早めに仕事を切り上げさせてもらって改めて材料を買い、大急ぎで作った。急ぎすぎてちょっと失敗してしまったけど、フーガもリザさんも予想以上に喜んでくれので良しとしよう。あと、今日はお酒も出てかなり遅くまで盛り上がったので、フーガは泊まることになった。そう、フーガはいま二つ向こうの部屋にいるんだ。
 今日仕事に行くと、ルーシーさんがこっそりと教えてくれたことがある。昨日のフーガの様子。最初にルーシーさんの店にあたしがいないか見に来た時点では、そこまで慌てていなかったらしい。けれどとっくに帰ったと聞くと、血相を変えて出ていったという。そしてあたしを見つけて送り届けた後に改めて顔を出したフーガは、かなり落ち込んでいたみたいだ。
「カナエを怒鳴りつけてしまいました」
 そう言って座りこんだフーガに、ルーシーさんは「怒鳴ったっていいんだよ。心配かけたのはあの子なんだから」と言ったのだが、フーガは「そういうことじゃないんです」と首を振った。
「カナエが自分の国に帰ってしまったのかと思ったんです。とても、怖かった。だからカナエを見つけた時には、安堵を通り越して怒りになってしまったんです」
 ルーシーさんは『カナエが自分の国に帰ってしまったのかと思ったんです』というのを大げさだと思い、「たとえ帰るとしても、あんたらには挨拶していくよ」と軽く笑い飛ばしたと言う。実際、あたしにその話をしてくれた時も「大げさな子だねえ」と笑っていたくらいだ。
 けど、あたしはその言葉の意味を正しく理解できる。あたしは、いつか唐突に元の世界に帰ってしまうかもしれないのだ。フーガがあたしの話を、全て信じてくれたとは思わない。それでも、あたしがいつか消えてしまうかもしれないという不安を持っていたのだ。
 いつか帰れるのかもしれない。それは甘い誘惑だった。同時に、どうしようもない残酷なものだった。
 帰りたい。晴彦に会いたい。帰りたくない。フーガと一緒にいたい。幾度となく、繰り返した煩悶。
 ベットの上に座りこんで、銀の指輪を見つめた。晴彦にもらった銀の指輪。この指輪は付き合って一年が過ぎた頃に買った。二人で露天を眺めていた時に、あたしが欲しいと言い出しのたのだ。
 最初晴彦は渋ったが、あたしが強硬手段に出たので苦笑して買ってくれた。代わりに、晴彦の分はあたしが買って渡した。「お互いで指輪を贈り合うって、素敵でしょ?」と言ったあたしに、晴彦は苦笑したんだ。そんな晴彦が、好き。
 いま彼は、どうしてるんだろうか。アーリシアに来てから、九ヶ月は経った。あたしは行方不明とされているのかな。お母さんはたぶん泣いている。友達もたぶん心配している。
 晴彦は、どう思っているのだろうか。もう大学生になっている? 史学科に行きたいと言っていたけど、どうなったんだろう。そうだ。あたしだって大学に行くはずだった。国公立の国文学科。それに向けて勉強だってしていたのに。
 あたしはベットの脇のテーブルに置いている手鏡を手にとって自分の顔を映す。肩まで伸びた髪。ここに来た当初はもっと短かった。なんとなく元の世界との繋がりを失いたくなくて、ここでは一度も髪を切っていない。伸びた分だけ時は過ぎている。晴彦が、あたしのいない時間を過ごした証。
「晴彦」
 小さく、つぶやく。
「フーガ」
 声が、震える。あたしはもう二度と帰ることはできないのだろうか。お母さんにも晴彦にも、会うことはできない? 何度も何度も繰り返した自問は、虚しかった。
 二度と帰れないならフーガを選ぶというの? 帰ることができるなら晴彦を選ぶというの? 馬鹿みたい。そんなの、二人に失礼だ。あたしは誰が好きなんだろう。あたしは誰と一緒にいたいんだろう。銀の輝きと深緑の輝き。
「――」
 指からそっと指輪を抜いた。内側に彫られた「I was able to meet you. 」。「あなたに会えた」の文字。
 一度、胸元でぎゅっと抱き締めて、小さな箱の中に指輪をいれる。この箱の中に閉じ込めて、引き出しの一番奥に封じてしまおう。あたしが、この指輪を見ても懐かしさに微笑むことができる日まで。揺らがない想いを、手に入れる日まで。
 封じてしまおう。手放してしまおう。あたしはもう大丈夫だよ。

     ***

 あたしの頭の中は「なに、どうなってんの?」「ついにあたしも妄想と現実の区別が……!」という言葉がぐるぐると回っていた。それくらい、予想外の事態に直面していた。
 今日もいつも通り図書委員で放課後にカウンターに座る細川くんを見るために、下校時刻になるまでここで本を読んでいただけだ。そしていつも通り最後に本を借りて帰るはずだった。なのに、今日はいつもと展開が違う。夕日が差し込む図書室で夕日以上に真っ赤になっていたと思う。だけど、目の前では細川くんが同じように真っ赤な顔で立っている。
 高校に入学して、同じクラスになった細川くん。あまり話したことはないけれど、図書室のカウンターに座って本を読む細川くんをいつの間にか見ていた。細川くんの読んだ本を読みたくて、借りた。
 彼はあたしのことを、よく図書室を利用するクラスメイトとして覚えてくれて、おもしろい本があれば教えてくれるようになった。話しかけてくれると、鼓動が高鳴る。笑いかけられると、うれしくて眩暈がする。
 夏休みに長い間会えなくなって、自分の恋心を自覚した。新学期がはじまってから、告白したいけど怖いなって悶々としながら図書室に通った。
 なのに、たまたま下校時刻まで残っていたのが、図書委員の細川くんと利用者のあたしだけだった今日 彼は帰り支度を始めたあたしを呼び止めた。――そして告げられた言葉は「好きだ」。驚きすぎて口を開いたまま、馬鹿みたいに突っ立ってしまった。
 なにか言わなくては。あたしも好きだと、言わなくては。不安そうに、けれど目を逸らさずに細川くんは返事を待っている。
 さあ、深呼吸だ。伝えたい言葉は一つ。答えたい言葉も一つ。落ち着いて、まっすぐ目を見て、返事をしよう。
「あたしも――細川くんが好き」
 その時の彼の笑顔は、生涯忘れはしないだろう。彼と出会えたということを、決して忘れない。

inserted by FC2 system