たとえ二度と会えなくても 4

掲載日:2011-10-09

「誕生日?」
「そう、明日はフーガの誕生日なのよ。もう二十歳なのね」
 朝からどんよりとした空模様のある日、朝食を食べているとリザさんがそんなことを言い出した。
「明日の夜にお祝いでもする?」
 そうだ。フーガには日頃お世話になっているし、誕生日にかこつけて感謝を伝えるのもいいかもしれない。
「やりましょう。ケーキとか焼きたいので、今日の仕事帰りに材料を買ってきます」
「ケーキを焼くの? ふーん、楽しみね。私、カナエの手料理も食べたいわ。この前作ってくれたスシっていうのがいい」
「お祝いごとですし、寿司は寿司でもチラシ寿司にしますね」
 前に、リザさんが知り合いから新鮮な魚介類をもらってきたから、お寿司を握ったことがある。港街のアーリシアでお寿司を握れば、きっとおいしいだろうなと思ったのだけど、本当においしかった。リザさんは嬉々として食べてくれた。
 そしてフーガも、たくさん食べてくれた。いつもは遠慮してあたしやリザさんが食べた後に手を出すのに、あの日はリザさんに取られまいとしてさっさと食べていた。きっとフーガも気に入ってくれたんだろう。お母さんが作って作ってと騒いだ時期に、意地でマスターしておいてよかったよ。
 よし、明日はチラシ寿司にしよう。具だくさんでね!

     ***

 フーガに紹介してもらった食堂で働きはじめて、かれこれ半年は過ぎた。貿易船の船員や観光客が来るような表通りにある食堂ではなくて、地元の人が常連のこじんまりとした食堂だ。店主のルーシーさんは、恰幅のいい元気なおばさん。ざっくばらんで少し口の悪いルーシーさんといると、落ち込んでいても元気が出る。あたしはそんなルーシーさんが大好きだ。
「カナエ、そろそろあがっていいよ。買い物したいんだろ」
 窓の外を見てから、ルーシーさんが言った。
「でも……」
 あたしがあがる時間まで、あと一時間はある。
「どうせ、こんな日はあんまり人は来ないって」
 まあ、確かに今日は人が少ない。いつも混むお昼時も近くの人が数人来たくらいだ。今日は朝から、厚く黒い雲が空を覆っていた。今にも降りだしそうなのに、なんとか持ちこたえているといった感じ。みんな、雨が降りそうなのであまり外に出る気にはならないのかもなぁ。
「じゃあお言葉に甘えて。今日は暗くなるの早そうだし」
 好意はありがたく受け取って、うきうきとエプロンを解いた。


 まだ夕方の時間帯ではないのに、妙に外はほの暗い。仕事をあがりケーキやチラシ寿司の材料を買いに来たけど、この天気はやっぱり嫌だなぁ。雨が降る前に帰りたいし、手早く品物を揃えるとすぐに家路につくことにした。
 でも、買い忘れがないか確認していたら急にフーガの嬉しそうな笑顔がよぎった。料理だけで喜んでくれるかな。もっと笑顔にさせたいな。……プレゼントも、買おうかなぁ。
 胸元に光る深緑のガラスに視線を落とす。『海神姫の祭典』で、フーガが買ってくれたペンダント。これをもらって、とってもうれしかった。フーガもあたしが何か贈れば喜んでくれるよね。きっと、喜んでくれるだろう。喜んだ上で、「気を使わなくていいよ」って遠慮するかも。改めてお礼の品をくれたら悪いなぁ。でも渡したいし、どうしようかなぁ。
 ……うん、贈ろう。気を使われるかもしれないけど、あたしの感謝の気持ちを伝えたい。何にしよう。実用的なものがいいなと思いながら、ショーウィンドウを横目に眺めて考える。
 服はサイズがわからないし、ハンカチとかは安すぎだな。あ、時計とか? 昨日フーガが時計を壊したって言ってたよね。もう買っちゃったかな。まあ、その場合は別のを用意すればいいか。時計なら、私も使えるし持て余すことはないだろう。
 そうと決まれば時計店を探すことにした。買い忘れていた果物を買う時に聞いてみると、この先の角を曲がった通りにあるらしく、お礼を言ってから時計店を目指した。


 しばらく歩いていると、ショーウィンドウに振り子時計を飾った店を発見した。看板を見ると、確かに時計店だ。
「いらしゃいませ」
 店内に入った私を初老のおじいさんが柔らかい声で迎えてくれた。笑顔を返して、陳列された時計に目を走らせる。
 何にしよう。懐中時計がいいな。フーガには、金の懐中時計が似合うと思う。きらきら輝く金ではなくて、鈍い光を放つ金。文字盤は白。フーガの落ち着いた雰囲気をいっそう引き立ててくれそう。じーっと眺めていたら、蓋なしの金の懐中時計に目がとまった。シンプルで素敵だ。
「それが気に入りましたか?」
 おじいさんがその時計をガラスケースの中から取り出して、実際に触れさせてもらえた。手のひらに乗せるとひんやりとした感触が伝わって心地良い。軽いけど、存在感を主張する重み。鈍く光る金。白い文字盤。黒い文字。
「これ、お願いします」
 気に入った。ちょっと高いけど、お礼と感謝とお祝いをセットだし、別にいいよね。というかこれ、フーガが持ってくれたらうれしいし。
「プレゼント用の包装はできますか?」
「ええ、ケースに入れてから包みます。何色がいいですか?」
 何種類かの包装紙のサンプルを見せてくれた。あたしは迷わず、深い緑の包装紙を選ぶ。おじいさんは「少々お待ちください」と言ってから、丁寧な手つきで時計を布で拭き、ケースの中に入れた。そして深い緑の包装紙で包んで、金のリボンをつけてくれる。
「お待たせしました。喜んでくれると良いですね」
「はい!」
 手渡されたプレゼントを鞄の底にしまい、笑顔でお礼を言って店を出た。本当に喜んでくれたら幸せだなぁ。


 外に出ると、辺りは既に暗くなっていた。まだ夕方といった時間帯だけど、厚い雲で太陽は完全に遮られてしまっている。
 雨が降りだす前に帰ろう。よく考えたら、ケーキとチラシ寿司の材料を片手に持っているのだ。これで雨が降り出したらやっかいだよね。
 なんだか風も出てきたようで、髪がうっとうしいくらいに流れる。もともと短かった髪は、ここに来てから切っていないし半端な長さなのだ。髪を抑えたら、耳に冷たいものが当たった。指輪だ。髪を抑えるのをやめて、左手の指輪を見つめる。
 今、あたしの心はどこにあるのだろう。晴彦が好き。晴彦に会いたい。けれど、この心は確実にフーガに惹かれていく。胸で揺れる深緑の輝きと、鞄の底の懐中時計が、今のあたしの心を表しているのだろうか。晴彦よりも、フーガに想いがあるという証?
 道の端に避けて、荷物を地面に置いた。そして、指輪をゆっくりとはずす。「I was able to meet you. 」。あなたに会えた。指輪の内側にはそんな言葉が隠れている。あたしは指輪も気に入ったがこの言葉も気に入ったのだ。だから、欲しいと言った。晴彦はこんな言葉が書かれているなんて知らなかったはずだ。さすがにもう気がついていると思うけど。
「私はあなたに会えた」
 あなたに会えてよかった。それは晴彦。そしてフーガ。
「――っ!」
 突然の突風だった。あたしはモロに風を受けて、体勢を崩す。足元に置いていた袋も倒れ、中身が散らばる。でもそんなものはどうでもいい。それよりも、転んだ拍子に落としてしまったものの方が大切だ。
 ちょうど指から外していた指輪が、風のあおりを受けて、コロコロと勢いよくあたしから離れていく。慌てて起き上がって追いかけたけど、追いつく前に道から転げ落ちて、川の近くの草むらに紛れ込んでしまった。地べたに膝をついて、草を掻き分ける。――ない。ないっ。ない!
「はるひこ」
 はるひこ、はるひこっ、晴彦! 何度も呼んだ。視界が涙ににじむ。必死に、銀の輝きを探す。
 不安だった。この世界に来る前から大切なものだったけど、この世界に来てからはもっと大切になったもの。いつも不安と恐怖で折れそうなあたしを、慰めてくれたもの。晴彦の面影。それが見当たらない。手も膝も服も土に汚れる。でも、それ以上に指輪を見つけたい。
「どこぉ……!」


 どれくらいの時間が経っただろうか。完全に真っ暗だ。街灯はここまで届かない。それでもあたしは一心不乱に探した。この辺りにあるはずだからと、雨すら降りはじめ服も体も顔も泥にまみれるのも厭わず、ただ探す。
「――エ!」
 叩きつける雨の向こうで、声が聞こえた。
「カナエ!」
 あたしを、呼んでいる? この声は。
「フーガ?」
 少し声を張り上げて、立ち上がる。瞬きをしてから視界を凝らすと、声に反応して方向転換したフーガが見えた。フーガの手にあるランタンの光がそれを教えてくれる。
「カナエ!」
 雨でびしょ濡れになったフーガが、すごい勢いで走りよってくる。あたしの前に立ち止まった時は、息が上がり、こんなに濡れているのに頬が赤く上気していた。かなり走ったようだ。そのフーガの顔が、あたしを見て凍りついた。
「ど、どうしたんだ!」
 一瞬なにを驚かれたかわからなかったけど、あたしの全身に忙しなく視線を走らせたフーガの様子で、この泥まみれの状態に驚いていると悟った。
「探し物をしていたの」
「……探し物?」
 途端にフーガの顔から力が抜ける。が、すぐに瞳に火が灯った。
「何時だと思っているんだっ!」
 怒鳴りつけられて、あたしは呆然としてしまう。あのフーガが怒鳴った。タメ口になっても柔らかさを失わない口調だったフーガが怒鳴った。表情にも声にも、明らかに怒気が滲みだしている。
「こんな天気にこんな時間まで連絡いれないなんて、なに考えている!」
 もっともな意見なのだが、フーガが怒鳴るという行為に頭を真っ白にしてしまったあたしは、口を理由もなくパクパクさせてしまう。
「姉さんから『カナエがまだ帰っていない』って連絡もらって、探したんだぞ! ……ルーシーさんのところは早めに出て買い物に出たって聞いたから、商店通りを探していたんだ」
 途中で怒鳴るのをやめて、感情を殺すように低い声で言う。
「……ごめんなさい」
 やっとあたしの口から出た言葉は、それだった。
「指輪を失くしちゃったの。だから、それを探してたの」
 フーガは苦虫を潰したような顔をした。
「明日にしよう。手元が暗くて、見つからないだろ」
「でも、」
 確かに、ほとんど手触りで探している状態だった。でも、晴彦との繋がり。じわりと、視界がにじむ。
「……わかったよ! 探せばいいんだろ!」
 再びフーガは怒鳴り、火がだいぶ小さくなったランタンを掲げて草むらに膝をついた。


「本当によかったわ」
 リザさんがあたしの前のソファーに崩れるように座る。潤んだ若葉の瞳に、胸が痛んだ。あたしはリザさんの淹れてくれたホットコーヒーをテーブルに置いて、もう一度頭を下げる。
「心配をかけてごめんなさい」
 リザさんは、普段の帰宅時間から三時間経っても帰ってこないあたしを心配してフーガに連絡をとり、探すようにお願いしたという。
 フーガさんはルーシーさんの食堂に顔を出し、あたしがとっくの昔に帰っていることを確認すると、走り回って探してくれたらしい。雨まで降ってきて、びしょ濡れになりながら見つけたら、馬鹿みたいに必死に指輪を探していたのだ。フーガが怒っても仕方ないだろう。それでもフーガは一緒に指輪を探してくれて、さらには見つけてくれた。その後はほとんど引きずられるように帰ってきて、リザさんには「心配したじゃない!」と涙目で抱きしめられて今に至る。
「……フーガ、怒ってましたよね」
 一番痛かったのはそれだ。フーガはあたしの方を見ようともせず、あたしを送り届けるなり「ルーシーさんにカナエが見つかったって伝えてから帰る」と言って、さっさと出て行ってしまった。さすがに、ショックだ。
「仕方ないでしょう。あの子だってとっても心配して探し回ったんだし」
 言い訳のしようもない。指輪は、明日明るくなってから探しても問題はなかったはずだ。なのに固執して探し続けた。せめて、一度家に帰ってリザさんに一言伝えればよかったのだ。
「明日の使う材料も、泥だらけにしちゃったし」
 地面に散らばった材料は、見るも無惨だった。革の鞄に入れていた時計は無事だったのが、不幸中の幸いだ。
「私も援助するから、もう一度買いものに行けばいいでしょ。それよりも明日は仕事に出る前に、改めてフーガに謝りに行きなさい。誕生日の晩御飯に誘って仲直りして」
 珍しくリザさんが厳しい表情で言った。仲直り。本当に、しなくちゃな。
「わかりました。仕事に行く前にフーガの家に寄ってきます」
 ペンダントを握りしめて、気合を入れた。

     ***

 フーガの家は、リザさんの所から徒歩で二十分ほどだ。ここには何度か来たことがあるけど、一人で来るのは初めてだった。チャイムを鳴らしたらすぐにフーガのお母さんが出てきて、笑顔で迎えてくれる。だけど、あたしは愛想笑いを浮かべるので精一杯。どんな顔をして会えばいいのかと考えると、体が強張ってしまう。
「あの子、朝食を食べ終わって部屋に戻ったから、直接部屋に行ってかまわないわよ」
 おばさんは昨日の騒動を知っているようだ。リザさんにそっくりな、いたずらっぽい表情で促した。
「ありがとうございます」
 ひとまず、フーガに会わないことには事態は変わらない。あたしは部屋の場所を教えてもらって、一人で部屋の前にたどりつくと、大きく深呼吸した。フーガと同じ深緑の輝きを握りしめて、気持ちを鎮める。そして、ほんの少し強めにノック。
「はい。どうぞ」
 中からすぐにフーガさんが答える。
「……おはようございます」
 そっと扉を開き、顔を出す。そして、訪れたのが母親だと思っていたであろうフーガは、硬直した。
「……おはようございます」
 驚きで、フーガはあたしの挨拶の言葉を繰り返す。しばらく馬鹿みたいに見つめ合ってしまった。
「昨日はごめん。怒鳴ったりして」
 先に立ち直ったフーガが頭を下げる。何でフーガが謝るんだ。
「心配かけたのはあたし。フーガが謝る必要はないよ」
「感情にまかせて怒ったのはよくないよ」
 フーガは寂しげに笑う。
「指輪だって、今日探せばよかったのよ。フーガのランタンがなければ一晩中探したって見つからなかった」
 ああ、本当にそうだ。もっと、あたしが冷静だったら。
「……でも」
 深緑の瞳が、あたしを捉える。
「大切なんだろう? 失くしたままでいられないほど、大切なものなんだろう?」
 その瞳に走る感情に、揺さぶられる。
「ハルヒコさんに繋がる、思い出なんだろ?」
 晴彦。フーガの口からその名前を聞くことはめったにない。あたしが何度か話したことはあるけど、フーガからその話題を振ることはなかった。
「――大切なの」
 左手ごと、指輪を握りしめる。大切だよ。本当に。フーガから無理やり目を逸らし、鞄の中から包装した時計を取り出した。
「誕生日プレゼント」
 ぐいっと差し出す。夜に渡すつもりだったけど、仲直りも兼ねて先に渡してしまおう。
「今日の夕飯はリザさんのところに来れる? 来れるならケーキとチラシ寿司を作るよ」
「……いく」
 ぽかんとした顔でフーガは答えた。たぶんチラシ寿司に反応して。
「開けていい?」
 かすかに頬を紅潮させながら、フーガは包装を解きだした。出てきた懐中時計に、驚いた顔をして、時計のガラスやチェーンに指を這わせて口元をほころばせた。
「ありがとう」
 その心からの笑顔に、あたしは泣きたくなった。

     ***

「へ?」
 思わずマヌケな声を出してしまった。そんなあたしを、晴彦は不思議な顔で見つめてくる。聞き間違いでなければ、晴彦はいま重大な発言をした。自分の誕生日が十月十二日だと、言った。今日は十月二十日。……過ぎてんじゃん。
 あたし達は、先月の二十二日に付き合いはじめた。だから、あと二日で一ヶ月目。今週に入ってから嬉しさのあまりワクワクしていた気持ちは、急激にしぼんだ。
 恋人になってはじめてのイベント。晴彦の誕生日。なのにあたしは何も知らずに逃してしまった。
「……もっとはやく教えてよ! お祝いしたかったのに!」
 ふくれっ面をすれば、困った顔を返された。
「別に何もいらないよ。俺の家自体、誕生日にケーキ食べたりなんて小学生までだし」
「あたしが、お祝いしたかったの!」
 ああもう、遅れちゃったけどプレゼントくらいはあげたいな。何にしよう。
「今度ケーキ作るね」
「俺、甘いの駄目」
「……」
「紅茶好きだよね? ちょっといい葉っぱでもどう?」
「あ、この前色々試し買いしたのがけっこうあるからいらない」
「…………」
「あのさ、気を使わなくていいから……」
「気を使ってるんじゃなくて、あたしが贈りたいの!」
 真剣に悩みはじめたあたしに、晴彦は呆れたように笑った。
「じゃあ今度の休み、家に来て昼飯作ってよ。親と弟は朝から夕方まで出かけてるんだって。インスタントラーメンでも食べるつもりだったけどさ。料理得意なんだろ? おいしいのを頼む」
 え? お昼を作るの? 人様の家の台所で料理をした経験はない。うわ、なんかメチャクチャ緊張する。
「そんなプレゼントでいいの?」
「そんなプレゼントがいいんだよ。叶の手料理が食べてみたい」
 そんなことを臆面もなく言われてしまったら、やるしかないじゃない。腕によりをかけて、おいしいお昼を作るわ!

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