たとえ二度と会えなくても 2

掲載日:2011-10-09

 それからの日々はそれなりに忙しくて楽しかった。リザさんはわがままなくらいにいろいろ仕事を押し付けてくる。料理に掃除にと、ほとんどがあたしの仕事となってしまった。居候の身としてはかまわないんだけど、リザさんは押し付けた分だけ暇になったらしく、あたしが掃除をしたりしている横でちょっかいをかけてくるのは勘弁してほしい。
 だけど、忙しいほうがありがたかった。じっとしていたら色々と考えてしまって、落ち込んでくる。一人になるのも嫌だった。誰かがそばにいてくれると、安心できた。たぶんリザさんは、そういう気持ちを考えてくれているんだと思う。
 フーガさんも約束通り、毎日のようにリザさんの家に顔を出してくれた。だいたいは夕方に来て、あたしに言葉や歴史や風習なんかを教えてくれて(あたしも日本語を教えて)、そのまま一緒に夕食をとる。フーガさんは親と一緒に住んでいるらしいけど、共働きで夕食は自分で作らなければならないらしい。どうせなら一緒に食べようとあたしが誘ったのだ。リザさんも賛成して、三回に一度は腕を振るう。
 夕暮れに染まる街中を歩きながら、この生活になじんでいる自分に苦笑した。二週間前からはじめた仕事の帰り道。今だ活気を失わない通りにあたしは存在している。決して関わることなどなかったはずの世界に。
 二ヶ月経った頃には、あたしもこちらの世界に慣れたし、フーガさんに紹介してもらった仕事もはじめた。順調だ。ちゃんとあたしはここで生活ができている。これもフーガさんとリザさんのおかげ。二人には本当に感謝している。
「……?」
 ふと、前方によく見知った男を発見した。ブロンドの髪の男と言葉を交わしている。友達だろうか。そう思いながらも声をかけようとしたあたしは、二人の声が届く範囲に来た瞬間に、固まった。
 ブロンドの髪の青年がほとんど一人でしゃべっていて、もう一人の男――フーガさんは所々で相槌を入れている。 ごくごく普通の会話だ。が、あたしは耳を疑った。なぜならフーガさんがタメ口で話していたから。
「あれ、カナエさん」
 フーガさんは、すぐ近くで立ち止まるあたしに気がついた。つられるようにもう一人の青年も視線を向けてくる。
「今迎えに行こうとしていたんです。最近暗くなるの早いですし」
「なに? お前いつの間に彼女できたんだ?」
 いつものように穏やかに笑ったフーガさんを、隣の青年がニヤニヤとひじで突付いた。
「彼女じゃないよ。カナエさんっていって、姉さんのところに住んでいる子なんだ」
 やはり隣の青年に話しかけるときはくだけた口調だ。
「彼はコニー・キルビス。同じ学院に通ってるんです」
「よろしくな、嬢ちゃん」
「……よろしくお願いします」
 差し出された手を握り返し、握手をする。
「あの」
 あたしは真面目にコニーさんへ問いかけた。
「フーガさんってあなたの前ではいつもあの口調なんですか」
 五秒間、沈黙が落ちた。続いてコニーさんの爆笑が起こる。腹を抱えて盛大に笑っている。その横でフーガさんがなんとも言えないような顔であたしとコニーを見比べていた。
「カナエさん……その、どういう意味ですか」
「だって、フーガさんいっつも敬語じゃないですか。あたしはフーガさんより二つ年下なんですよ。なのにずっと敬語です」
 フーガさんは誰に対しても丁寧な言葉で接した。あたしはもちろん、お姉さんにも敬語で話す。前に会ったご両親にも敬語だった。さらには小さな子供にも敬語。老若男女問わずにフーガさんは常に敬語で話していたのだ。二歳年上の人にそういう態度に出られると、気後れしてしまう。しかも相手は命の恩人だ。まあ、それが性格なら仕方がないと諦めていたんだけど、いま目の前にいるフーガさんは友達と軽口を叩いている。一人称が「私」から「僕」に変わっていさえする。自分の耳がおかしくなったのかと思ったぐらい驚いたのだ。
「それならカナエさんもいつも敬語じゃないですか」
「あたしは年下ですし、フーガさんは命の恩人です。そのフーガさんが敬語で話すなら、あたしも敬語じゃないと落ち着きません!」
 目上の人に敬語を使うのは当然だが、最近周りに目上の人しかいなくて敬語ばかりだ。一番年の近いフーガとはもっと気楽な口調で話したかった。
「別に気にせずタメ口でいいんですよ」
「フーガさんが敬語をやめてくれなきゃあたしもやめません」
 困ったように、フーガは深緑の瞳が揺らぐ。
「私が敬語をやめないと、カナエさんもやめないんですか?」
「そうです!」
 強引だし、説得力は欠片もないな。フーガさんはあたしが敬語だろうが何だろうが気にしないはずだ。叫んだぶんだけ虚しくなった。
「じゃあやめる」
 ああ、やっぱり説得力は……あった? しかもあっさりと?
「本当ですか」
 信じられなくてもう一度聞いた。
「本当だよ。だから、カナエも敬語はなしだ」
 苦笑するフーガさんに、あたしの動悸が――速まった。


 その後、あたし達が敬語を使わなくなったことに気がついたリザさんは、あたしの両手を握ってぶんぶんと振り回す。フーガがタメ口を使うことは、滅多にないらしい。
 昔、コニーさんや他の友人達が『フーガにタメ口を使わせよう同盟』を作って、脅したり泣き落としたりといろいろしたおかげで、コニーさんやごく一部の友人にはタメ口を使うようになったようだ。それだけがんばってタメ口を獲得したコニーさん達。そんな難関をあっさり突破したあたしは、コニーさんとリザさんから感動的な握手をされた。
「ねぇ、知ってる?」
 リザさんは悪戯っぽく耳打ちした。
「フーガってね、あなたが来る前は一週間に一度しか顔を見せてくれなかったのよ」
 意味を考えて、思わず顔を伏せてしまった。フーガはあたしがこの家にお世話になったその日から、よほどのことがない限り毎日顔を出している。うれしいと思った。ただ自分の拾った子が心配だからとか、勉強を教えるとかだったとしても、うれしかった。フーガがいると、なんだかほっとした。
 けれどフーガの顔を見ると安堵する反面、ほんの些細な事でも晴彦に重ねている自分に気がついていた。
 フーガと晴彦は似ている。本が好きなところ。低く柔らかい声。穏やかな笑顔。さりげない優しさ。フーガさんと晴彦は違う人間。甘党のフーガ。甘いものはあまり食べない晴彦。猫舌のフーガ。熱い飲み物が大好きな晴彦。
 どうしよう。罪悪感が募る。あたしはフーガに惹かれてる。あたしはフーガに晴彦を重ねてる。――寂しさを、埋めたいだけなのかもしれない。
「会いたいよ、晴彦……」
 会いたい会いたい会いたいです。はじめてあたしが付き合った人。はじめてあたしがキスした人。露店でお互いが買って渡したおそろいの銀の指輪。ありがとう、そう笑いあったあの日を今でも鮮明に覚えてる。
 左手の薬指にはめた銀の輝きを、左手ごと握りしめて額に押し当てる。涙が、溢れる。いとしい。彼の笑顔が、その声が、いとしい。
 ――優しく頭をなでられて。
「……フーガ」
 いつの間にかフーガがいた。落ち込んでいたあたしを心配したリザさんが呼んだのかな。口元に曖昧な笑みを浮かべて、困ったような暖かい眼差しであたしの頭を慰めるように撫でてくれる。フーガ。あたし、つらいよ。晴彦に会いたい。けどね、フーガとお別れは嫌。
 必然だった。奇跡でしか出会えなかった人に。この世界ではじめての頼れる人に。晴彦の面影を持つ人に。心惹かれることは――必然だった。

     ***

「楠木さん」
 晴彦くんは、本から顔を上げずにあたしを呼んだ。珍しい。いつもあたしと話す時は、本から目を離してくれるのに。しかも、今は晴彦くんから話しかけてきたのに。
「なに?」
 あたしは読んでいた本を閉じて、先を促した。なのに細川くんは、「あー」とか「その」とか口ごもる。まだ本から顔は上げてくれない。ムッとした。こっちを見てよって言いたくなった。
「楠木さん」
 もう一度、晴彦くんはあたしを呼んだ。そして、沈黙。もちろん、顔は上げてくれない。あたしは身を乗り出して、細川くんの本に手を伸ばす。息を吸って、文句を言おうとする。
「叶って、呼んでもいい?」
 ……。…………びっくりした。叶って、呼んでもいい? それはつまり、名前で呼び捨てにしてもいいってこと? 叶って、細川くんが呼んでくれるの?
 心臓がバクバク鳴っている。顔はきっと、真っ赤だ。言いたいことはあるんだけど、言葉が出てこない。あたしは、細川くんの本を奪おうと伸ばした手を中途半端に止めたまま固まった。
「く、楠木さん?」
 何も言わない私に不安を感じたのか、細川くんはそろそろと顔を上げる。あたしと同じように、真っ赤に染まった頬。眼鏡の奥で不安そうに揺れる、瞳。ああそうか。だから細川くんは本から顔を上げてくれなかったんだ。恥ずかしくて、不安で、顔を上げられなかったんだ。――いとしくなった。
「晴彦」
 呼びかけると、きょとんと瞬きをする細川くんの顔。ううん、晴彦の顔。
「じゃあ、あたしは晴彦って呼んでいいのね?」
 そう言って笑いかけると、晴彦は徐々に顔を苦笑に歪ませた。
「叶には晴彦って呼んでほしい」
「あたしも、晴彦には叶って呼んでほしい」
 中途半端に伸ばしてたあたしの手を、晴彦は握って引き寄せる。それが、はじめてのキスだった。

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