たとえ二度と会えなくても 1

掲載日:2011-10-09

 夜の闇は、あたしの心を剥き出しにする。
 切ない苦しみが絡みつきあたしを捕らえ、真綿で首を絞めるようにじわじわと心を締め上げていく。静まり返った空気の中ではいっそうの孤独を感じて、ぎゅうっとベッドの上で丸まって唇を噛み締めた。
 会いたい。でも、もう二度と会えないかもしれない。
 考えただけで涙が溢れた。きつく枕を抱き込んで、叫びだしたい衝動を押さえ込む。そうでもしなければ、泣き喚いて暴れてしまう。運命を呪い、怒りと嘆きに心が張り裂けてしまう。
 なぜ? そんな問いかけに意味がないと知った。誰も答えをくれたりしない。あたしが答えを見つけることもできない。
 どんなに叫んでも届かない。どんなに求めても見つからない。どんなに想ってももう会えない。だって、交わることのなかったはずの世界にあたしはいるから。
 込み上げる熱いものを吐き出して、ゆっくりとベッドから起き上がる。カーテンに手を伸ばして隙間から夜空を見上げた。
 この夜空を一緒に見ることはできない。同じ空の下にいないことを、誰より理解しているのはあたし自身だ。
 会いたい。そうやって、星に願う。月に願う。繰り返し、願い続ける。願うことしかできない自分が惨めで、また視界がぼやけた。

 会いたいの。ただ、それだけなのよ――。


 ***


 寒い。なんだこの寒さ。布団でも蹴飛ばしちゃったのかな。動くの億劫だけど、布団被らないと寒くてたまらない。足と手を動かして布団を探そうとしたら、ざらりとした冷たい感触が不愉快でうっすらと目を開く。
 視界に飛び込んできたのは、海。太陽が地平線から顔を出し、美しく海面を輝かせている。綺麗だなとぼんやり眺めたけど、やっぱり寒さがこたえて布団に意識を戻して――、寒さの正体を知りがばりと起き上がる。
「ここ、どこ」
 自室で眠っていたはずのあたしの目の前には、海。しかもベッドもどこにもなくて、地面の上にパジャマ一枚。なんだこれ。どこだこれ。一瞬頭が真っ白になったけど、ひとまず落ち着こう。左手の薬指に嵌めた銀の指輪に手を這わせると、その冷たい感触に心を落ち着かせた。
 ひとまず立ち上がり、あたりを見回す。正面が海。右左に目を移すと、森か山かはすぐに判別できないけど、木々が覆っている。反対の左側には、家が見える。人がいるってことだよね。ここがどこか聞こう。もしかしたら、知らないうちに夢遊病でも発症してふらふら出歩いてしまったのかもしれない。……歩いていける範囲に海なんてないんだけどさ。
 ああ、ドッキリって線もあるな。お母さんが勝手にテレビ局に応募して、あたしに何も知らせずこっそりとここに放り出したのかもしれない。あの人ならあり得る、かもしれない。
 なんであれ、その辺に人はいるんだから誰かに交番に連れて行ってもらおう。そしたらどうにかなるはずだ。
 そうと決まれば家のある方角に向けて歩き出す。裸足だから小さな石とかがある地面は痛くてたまらないけど、少しの辛抱だ。というか、寒さのほうがヤバイ。まだ九月だからパジャマは半そでだし、薄いし、すっごく寒い。なんだこの冷たい風。海のそばだからか?
 寒いのも痛いのも嫌だけど、思考を逸らしてくれるのはありがたかった。だって、考えたらパニック起こすだけだしさ。


 家々が立ち並ぶ路地に入って目にしたのは、色鮮やかなピンク色の髪と瞳を持ったおばさんが、水撒きをしている姿だ。染めているんだろうか。綺麗な色だなぁ。でもピンクって、なんか声かけづらい。というか、よく見ると日本人ではなさそうだな。余計に怖気づく。
 放心状態でピンクのおばさんを見つめてしまったが、そのうちおばさんは水撒きを終えて家の中に引っ込んでしまった。さすがにチャイムを鳴らして「ここはどこですか?」って尋ねる勇気はない。うん、他の人を探そう。幸い人通りはちらほらある。
「……?」
 でも、違和感にまた固まってしまう。見回した街並みがおかしいのだ。ゲームとかに出てきそうな、中世ヨーロッパっぽい感じ。日本にもこんな場所があるんだ?
 よくわからないけど、やっぱり誰かを捕まえたほうが早い。目に付いたおじいさんに声をかけようと一歩踏み出したところで、やっぱり固まる。
 紫の髪は、まあいい。紫に染めている人は、よくいる。でも服装がなぁ。パジャマ姿のあたしが言うのはなんだけど、異国情緒溢れるちょっと古臭い型の服だな。
 別の人にも目を向けたけど、おじいさんと似たり寄ったりの服装をしている人ばかりだ。髪の色も、赤とか金とか色々あるみたい。
 ……や、やっぱりドッキリ? どこかのテーマパークに放り込む企画? そう、ドッキリなんだ。むしろ、そうであってほしい。そうでなければ困る。
「ハハ。お母さんったら」
 自分でも棒読みな台詞に悲しくなった。そうだ交番。怖いけど誰かにここがどこだか聞いて、交番に連れて行ってもらおう。そしたらどうにかなるはずだ。……日本語、通じるのかなぁ。
 左手を右手でぐっと握り締めて大きく息を吐き出してから、もう一度あたりを見回す。さっきまでちらほら人を見かけたのに、今は人っ子一人いない。うん、まあ、たまたまだ。歩こう。そしたらそのうち人に会える。
「あの、」
 前方しか見ていなかったあたしは、突然背後から声をかけられて、かなり驚いた。寿命縮んだよきっと。思わず飛び退くように振り返ってしまったのは失礼だと思うけど、この際は勘弁して欲しい。
「だ、大丈夫ですか?」
 あたしの驚き具合に声をかけたほうも驚いたのか、動揺を滲ませる深みのある低い声。距離をとったままじっと声の主を仰ぎ見た。
 印象的なのは、深い深い森のような深緑の瞳。そして、みどりの黒髪と呼ぶにふさわしい、つややかな髪。背はあたしより頭ひとつ分高い、男の人。
 しばらくぼうっとその人を見ていたけど、深緑の瞳が困ったように揺らいで、はっと我に返った。こんな時に見惚れてどうする。あたしの馬鹿。ええっと、何が聞きたかったんだっけ。ああ、そうだ、ここはどこかと交番!
「ここはどこですか?」
 ……少々、単刀直入すぎた。まあ、質問自体は間違ってないから良しとしよう。向こうから話しかけてくれたこのチャンスを逃すわけにはいかないと、気が急いたあたしを誰も責められない。
「港の市場通りの裏道ですが」
 男の人も、ほぼ反射で答えてくれた。が、どこだよ港の市場通りの裏道って。
「地名でお願いします」
 当然のごとく、不思議そうな顔をされた。無理もないよね。そんな基本的なことを聞かれたら困るよ。あたしなら「誘拐でもされた?」って笑ってやるわ。……誘拐! 思いつかなかった。え、あたしって誘拐されて放置されたってこと?
「――地名はアーリシアです」
 パニックになりかけたあたしの思考を引き戻してくれた彼の言葉は、聞き捨てならなかった。アーリシア。明らかに日本の地名じゃないよね。一応確認してみよう。
「日本ですよね、ここ」
「ニホン? ああ、港から二本目のとおりですよね」
 漢字変換が違うよ青年。
「日本です。ニホン、ニッポン、ジャパン!」
「どこですそれ」
 今度はあたしが問いかけられた。そうか、日本を知らないのか。世界的にも知名度あるかと思ってたんだけどな。……って、日本じゃないのかここっ! い、いや、冷静になれ。あたしは日本語をしゃべっている。相手も日本語をしゃべっている。なら日本だ。日本に違いない。この人は、たんにからかっているだけだ。
「日本じゃないなら、その、ここの国名は……」
 でもやっぱり自信がなくて、そう尋ねてしまった。国名なんて聞くおかしな女に、男の人は訝しげに首をかしげる。
「ディルレイラ国です」
 だからどこだよそれ。知らんわ。
「この大陸の大国のひとつです。もしかしてあなたは、他国からいらっしゃったんですか?」
 あたしの表情に気がついて補足してくれるのはありがたいが、あいにく頭も口も動かない。動かしたくない。ぼんやりと黙ったあたしに、男の人はさっと自分の上着を脱いだ。
「ともかくそのような格好では風邪をひきます。近くに姉の家があるので、そこで話をしましょう」
 上着を被せてくれたのはうれしいが、問答無用で肩をつかまれて身をすくめる。もしかしてこれはヤバイのでしょうか。姉の家とは言っているけど、嘘か本当かはわからない。どっかに連れ込まれたら本気でヤバイ。ど、どうしよう……。
 寒い。寒いようなぁ。上着でちょっとはマシになったけど裸足の足からじんじん熱が奪われていく。……だ、駄目だよ。もしこの人がただの親切じゃなかったらすごいヤバイんだから。でも、家の中に入りたいなぁ。温まりたいよぅ。寒っむ。……。……やっぱ寒っ!
 あーあーあー、もういい、もういいよ、うん。ひとまず付いてくよ。身体温めるなりなんなりして、隙を見て逃げよう! 途中で逃げてもいいし! 寒さに負けた。というか、すでに足の感覚がなくなってきてて別の意味でヤバイよ。もし本当にただの親切ならありがたいし! うん、疑いつつ従おう。危なそうだったら逃げよう。そうしよう。
 鈍った思考は、後から考えればかなり危険で投げやりでどうしようもない結論を弾き出してしまったけど、今のあたしにそれに気づけと言うのも無理な話だ。
「フーガ・クロスレットです。疑っても警戒してもいいので。付いてきて下さい」
 苦笑されてしまった。……あたし、考えてることが顔に出やすいのかもしれない。

     ***

 連れて行かれた場所は、さっきの所から少し歩いた場所にある家だった。フーガさんはポケットから鍵を取り出して家の中に入ると、居間らしい部屋にあたしを案内してソファーに座るよう促した。
「少しここで待っていて下さい。毛布持ってきます。お風呂が沸くまで包まっていて下さいね」
 お風呂! ありがとうフーガさん。お風呂の魅力にコロッと警戒心が抜け落ちたあたしは、本当に単純馬鹿だ。でもお風呂。温かいお風呂。早く身体を温めたいよ!
「あらフーガ、早いわね」
 女の人の声。部屋を出ようとしたフーガさんが、誰かと鉢合わせたみたいだ。そういやここってお姉さんの家って言ってたな。本当だったんだ。まあ、女の人がいるならちょっと安心だなと、警戒心を放り出していたくせに思った。
「姉さん、すみませんがお風呂をお借りします」
「別にいいけど、どうしたの?」
 フーガさんが部屋の中を示して、お姉さんはひょこりと顔を出しあたしを見る。
 姉と言うのは本当のようで、よく似ている。ゆるくウェーブする長い黒髪。同じ緑の瞳だけど、森のような深緑とは違って、すがすがしく明るい若葉の瞳。
「誰この子」
 当然の疑問をお姉さんは口にした。
「ここに来る途中に会ったんです。お風呂で体を温めた方が良いかと思ったので、連れて来ました」
「ふーん、なんかワケありのを拾ってきたってことね」
 確かにそうかもしれないけど、もうちょっと言いようはあるのではないでしょうか。
「じゃああなたはお湯を入れてきなさい。沸くまで時間かかるし、先に温かい飲み物を用意しとくわ」
 温かい飲み物! ありがとうお姉さん。ちょっと不満を持ったりしてごめんなさい。心がささくれたっていたみたいです。


 毛布に包まってココアを飲んでいる間、フーガもお姉さんも特にあたしに声をかけず、放っておいてくれてありがたかった。体が冷え切っているしまだ寒いけど、こうやって温もりを得られるとひとまず安心するし、黙って自分の心を落ち着かせたい。
 しばらくしてお風呂が沸いたら、お姉さんが案内してくれて服やタオルを貸してくれて、お風呂の使い方だけ教えたらすぐに一人にしてくれたのもありがたい。
 パジャマを脱いで、そっとミルク色のお湯に浸かる。感覚のなくなりかけていた足はじんじんして痛いけど、気持ち良い。
 体が温まっていくと同時に、固まっていた思考も徐々に動き出し、今のあたしが置かれている状況も受け止められるようになっていった。
「ここは、あたしの知っている世界じゃない」
 声に出すと、白々しく響いた。でもそうとしか思えない。街並みも、顔も、髪や目の色も、日本じゃない。たぶん、外国でもない。だってフーガさんは「この大陸の大きな国のひとつ」と言い方をしたけど、あたしは知らないんだ。大きな国なら、聞いたことくらいあるはずだ。
 あたしはタオルの上に置いた銀の指輪を、じっと見つめ、しばらくしてから目を固く閉じた。頭のてっぺんまでお湯に沈んで、こみ上げる熱の塊を堪えた。
 わからない。何が起こっているのか、全然わからない。でも、あたしは今、ここにいる。

     ***

「――ということです」
「ということですって言われてもねぇ」
 目の前に座るリザさん(リザ・ハイスン=クロスレットというらしい)は、コーヒーをすすりながら唸った。フーガさんも困った顔をしている。
 あたしはお風呂から出て朝食とコーヒーを頂いてから、落ち着いたところで事情を説明したのだ。まあ、あれだ。ここはあたしのいた世界じゃない。理由はわからないけど、迷い込んだって言う感じのことを。
 こんなことを会ったばかりの人に言うのもどうかと思うし、下手すれば面倒くさい奴だと放り出されるかもしれないけど、今必要なのは情報と、協力者だ。いい人そうだし、利用できるなら利用する。フーガさん、あたしを拾ったのが運の尽きだと思って諦めるのよ! ……前向きといえば聞こえはいいけど、ずうずうしいなあたし。
「これ読める?」
 差し出されたのは本だった。リザさんは、表紙の題名らしきところを指差している。アルファベットじゃないし、もちろん日本語でもない。なんだか複雑な模様にしか見えない。だから正直にそう言った。
 続いて、王様(!)についてや、地理に関する質問をいくつかされて、答えられないあたしを「ふーん」とばかりにリザさんは眺めている。
 やっぱり、信じてもらえないかな。仕方ないよね。あたしも逆の立場なら信じない。でもここはめげずに食らい付かなくちゃ。あたしは今、ピンチに陥っているのよ!
「じゃあここにいれば?」
 さらに畳みかけようと意気込んだところで、あっさりとリザさんは言った。言ったら言ったで、唖然としているあたしやフーガさんを無視して、テーブルのビスケットに手を伸ばしていた。
「……姉さん」
 おずおずとフーガさんは口を開く。
「彼女の話を信じたんですか?」
「あら、あなたは信じてないの?」
 笑顔で返したリザさんに、フーガさんはぐっと詰まる。まあ、そりゃ信じられないわ。
「少なくとも、この子が世間知らずのお嬢さんであることには違いないし、このまま放り出しても人売りにでも騙されて娼館行きじゃない? そしたら寝覚め悪いしさー」
 しょ、娼館っ? な、なにそれ、そんなのあるの! あたしマジでヤバかったのか? 顔面蒼白になったあたしを気の毒そうに見たフーガさんに、勢いよく詰め寄った。
「ほ、本当に人売りとかあるんですか! ちょっと見捨てないで下さいっ。嫌よあたし、彼氏いるのに!」
「あらー、彼氏いるの? 残念。フーガにどうかなって思ったのに」
 泣きそうになっているあたしに向かってそんなことを言えるリザさんは、無神経なのか場を和ませたいのか。こっちではどうか知らないけど、あたしの左の薬指には指輪があるんだよ! 恋人いるんだよ!
「落ち着いて下さい。姉さんが良いと言っているんですから。しばらくここにいて、これからのことを考えましょう」
 ああ、フーガさんはこんな優しい言葉をかけてくれるっていうのに。ってさっきまで信じてくれなかったのはこの人か。でもここに居ていいってことは、ひとまず衣食住確保。よし。
「それよりあなた、名前は?」
 あれ、あたしったら名前も言っていなかったのか。それは失礼なことをした。
「楠木叶です」
「クスキカナエ?」
 そうか、苗字と名前が逆な上、区切り方もわからないのね。
「叶が名前です」
「ふーんカナエちゃんね」
 若葉の瞳にあたしが映る。
「これからよろしく」
 にっこりと微笑んだリザさんに、あたしも釣られて「よろしくお願いします」と笑った。
「それにしても、あなたディルレイラの言葉を話してるわよね。しかもアーリシア訛りで」
「それが疑問なんです。あたしは日本語で話しているつもりですし、リザさん達の言葉も日本語に聞こえます」
「ニホン語ですか?」
 フーガさんがどうしてだか目を輝かせた。
「あたしの国の言葉です。文字とか全然違います」
 言いながら、あたしはペンと紙を借りて『楠木叶』と書いた。
「なに、その模様」
「これはあたしの名前を漢字――あたしの国の言葉で書いたんです」
「この街は言語に関しては資料が充実していますが、見たことのない文字ですね」
「あら、フーガも見たことがないの?」
 興味津々で漢字を見つめるフーガさんは、少しはあたしが別の世界の人間だと信じてくれただろうか。わからないけど、まあ他文化の人間くらいはわかってくれたらいい。今はごり押しせず、ゲットした衣食住を守るぞ。
「こんな風に全然文字が違うので、文字も教えてくださるとうれしいです」
 いくら話すことはできても、生活していく上で字が読めないなんて苦労しそうだ。もっともディルレイラの国民の識字率はあまり高くはないようだが。
「文字ならフーガに教えてもらいなさい。今、学院でいろいろな言語を勉強しているから」
 フーガさんは、日本でいう大学に属する学校で勉強しているらしい。特にアーリシアは言語に力を入れている街らしく、学院もそこに力を入れているみたいだ。
「よろしければ、カナエさんの国の言葉も教えてください」
「別にいいですけど、利用価値はないような気が……」
 異世界に跳ぶなんてことが、そうそうあったら嫌だ。その思いが顔に出たのか、フーガさんは困った顔をした。何か言おうとして何も言葉が出てこなかったようで、一度も手をつけていなかった冷め切ったコーヒーに口をつけている。
「いいんですよ。ただの趣味でもありますし」
「わかりました。あたしこそこれからよろしくお願いします」
 姿勢を正して頭を下げた。

     ***

 夜になると、あたしは与えてもらった部屋でへたり込んだ。ベットで横になりたかったけど、一人になった途端に体中の力が抜けた。
 そのまま、あたしは今日のことを振り返る。
 目が覚めたらこの世界にいた。フーガさんに拾われ、リザさんの家にお世話になることになった。衣食住が確保できるなら不安はだいぶ和らぐからうれしい。
 でも二人にはまだ出会ったばかりで、本当に安心かと言われれば頷けないけど、今は頼るしかない。いや、少なくとも、たとえ仮初であろうと頼れる人がいることがありがたい。感謝している。それに、悪い人ではないと感じた自分の心を信じたい。
 ディルレイラのことをいろいろ話してくれたフーガさんは、二時間ぐらいしてから学校があると帰ってしまったけど、なるべく毎日ここに来てディルレイラ語や風習を教えると約束してくれた。
 フーガさんは丁寧で柔らかい物腰の人だ。お姉さんにまで敬語を使っているし、控えめで穏やかな雰囲気にはなんだかほっとする。
 リザさんは明るくてさっぱりとした物言いで、何度も笑わせてくれた。もう結婚しているらしいけど、旦那さんは貿易商人で一年のほとんどを海の上で過ごしているから暇で、突然の居候は大歓迎だと言ってくれた。
 そして、このアーリシアは貿易で栄える港街のようだ。領主は貿易がより活発になるように、条例の整備や他国の言語に関する教育などに力をいれているらしい。他国の人間もこの街からディルレイラ国に入る場合が多く、首都よりも外国人の人数が多いといわれている。なので信じているかどうかは不明だが、あたしが全く別の世界の人間だとしても最低限の知識さえあれば、「どこかの国の人」と思われてさほど目立たずにすむようだ。
 他にもディルレイラ国について簡単に教えてもらった。この国は、というか周りの国々も王制を敷いているらしい。ディルレイラの現国王は三十代の若い王ながらも、有能な人のようだ。法整備やら孤児院を作ったりと国民への救済措置も行ない熱烈な人気をもって愛されている。しかも新しい物が好きで自分から他国との交流を活発に行なうので、その窓口としてアーリシアはより栄えているという。
 ――ディルレイラ国。あたしの知らない、世界。
 膝を抱えて、顔をうずめる。爪が皮膚に食い込むことも気にせず、できるだけ身を縮こまらせる。帰りたい。一人になると心細くなる。あまり考えないようにしている現実が、溢れだす。
「お母さん」
 あたしの家は母子家庭だ。あたしがいなくなったら、お母さんはきっと悲しむ。お母さんだけじゃない、もう友達とも、晴彦とも、会えない。
「――晴彦」
 今日は晴彦と一緒に映画を観に行くはずだった。付き合いはじめておよそ二年。晴彦から誘ってくれるなんて初めてだったから、本当に楽しみだった。
 青いフレームの眼鏡をかけていた、晴彦。いつも本を読んでいた、晴彦。柔らかく微笑む、晴彦。あたしを呼ぶ、晴彦。
 指輪ごと左手を握りしめる。銀の輝き。ここにある輝き。向こうにある輝き。晴彦に繋がる、輝き。
 晴彦。晴彦。晴彦。もう、会えないの?

     ***

 放課後の図書室で、あたしはソファーに陣取り本を読む。これは高校に入っていつの間にか付いた習慣だ。別に本が好きというわけでもなかったけど、なんとなく大人ぶりたくて図書室で本を読み始めたのが最初だ。
 けど、途中で目的ができた。放課後、よくカウンターに座っているクラスメイトの細川晴彦。図書委員らしく貸し出し手続きをする彼の低い声。暇なのか、カウンターに座ったまま本を読む静かな表情。気がつけば、彼に会うために図書室に足を運ぶようになっていた。クラスメイトとして同じ教室にいるよりも、放課後の図書室という空間で一緒にいることのほうが幸せだった。それは付き合い始めた今も変わらない。
 用事がない限りは、晴彦の仕事が終わるまで図書室で本を読む。今読んでいるのは、前に晴彦が読んでいた本だ。何を読もうかと本棚の間を歩き回っている時に、見覚えのある背表紙を見つけて手に取った。読みはじめると、ぐいぐい引き込まれて夢中で文字を追う。静かな放課後の図書室。本を読む人と勉強をする人しかいないこの場所が心地よい。
 今日は晴彦の図書委員の当番の日だ。カウンターに座って本の貸し出しや返却をするのだが、利用者が少ないので座ったまま本を読んでいる。週に三日、晴彦が放課後の当番を一人でしていた。なんでも部活をやっている人やさぼりの人の穴埋めで、帰宅部の晴彦が貧乏くじを引いているようだ。図書委員は各クラス二人なんだから、当番は週に一度で十分なのに。まあ、部活をやっている人は昼休みに当番をしているし、晴彦は不満を感じていない。というか、晴彦は本が読めればどうだっていいのだろう。
 下校時刻を告げるチャイムが鳴った。ここを閉める合図でもある。本を読み終えれなかったので、カウンターに持っていった。立ち上がって気がついたのは、いつの間にかあたし以外の利用者はいなくなっていたことだ。
 あの日みたいだ。晴彦が告白をしてきた日も、いつの間にか二人きりになっていた。晴彦が貸し出し手続きをしている晴彦を見て、あの時の彼の緊張した表情や笑顔を思い出す。かわいかったなって、胸の中で笑った。そんなことを考えていたら、目が合った。
「この本、どう」
「好きな感じ。今日中に読みきるわ」
 あと三分の一くらいだから、夜更かしせずに読み終われるだろう。
「あの、さ」
 ためらいがちに、晴彦はあたしに本を渡す。
「今度の日曜、一緒にこの映画を観に行かないか」
「……映画、やってるの?」
 すると、今の今までためらいがちでしかもほんのり顔を赤らめていた晴彦の表情が、瞬時にあきれたものに変わった。
「テレビとかで宣伝してるよ。本屋に行ったら、映画化の帯もついているし、特設コーナーもあると思うけど」
 知らない。テレビはあまり見ないし、本屋にはあまり行かないし。
「だったらさ、なんでいきなりその本を読んでるんだ?」
 ……晴彦が前、読んでいたからだよ。普段ならそう素直に言えたけど、今回はなんだか恥ずかしくて「目に付いたから」と、当たり障りなく言っておく。
「まあ、別に気にいってくれたならうれしいけど……。叶ももうちょっとテレビとか見ろよ」
 そうだね、と軽く流した。
「でさ、映画やっているから見に行かないか」
 晴彦は話を戻した。……あれ? よく考えたら二年近く付き合っているのに晴彦から誘ってくれたのは初めてかもしれない。……うわ、なんかうれしいな。不覚にも心臓がちょっと暴れている。
「次の土曜にでも行く?」
 あたしはもちろん、「うん」と笑う。次の土曜日。はじめて晴彦が自分から誘ってくれたデートだ!

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