私は恋しました。

掲載日:2010-10-11

 ごめん、とその人は言った。心底悲しそうな、申し訳なさそうな顔で、そう言った。
 私は何も言わずに、ただ頭を下げてその場から逃げ出した。何を言えというのだろう。いいえ、気にしないで下さい。こちらこそごめんなさい。そう言えばよかったの? 無理に決まってる。諦めたりできないし、好きになったこの気持ちを自分自身で恥じたくない。
 私は恋をした。息もできないほどに甘く胸を締め付ける恋をした。ただその恋は決して報われない、叶うことのない恋になった。恋した私は悪くない。だからといって、私に恋しないあの人が悪かったわけでもない。
 出会うのが遅かった? タイミングが合わなかった? 私に彼女以上の魅力がなかった? ――どれも当てはまるけど、どれも言い訳だ。
 結局のところ、私はあの人に恋をして、あの人は彼女に恋をした。そして彼女もまた、あの人に恋をして結ばれた。よくある話。好きになったら必ず結ばれるなんてありえないし、誰かの想いが報われれば、誰かの想いが踏みにじられる。
 ただ、あの人が私と親しくした理由が、笑うに笑えないものだった。それだけだ。

 ***

「香織、これなんてどうかしら?」
 真剣な顔で尋ねてきたお姉ちゃんが指差すブライダル雑誌に、私は視線を落とした。
 背が高くてスタイルの良いお姉ちゃんに似合いそうな、マーメイドラインのウェディングドレス。胸元はシンプルなのに、下になるにつれて白の細かい刺繍が施されていき、生地も増えて美しい広がりを見せていく。床を引きずる裾が、それこそ本当に人魚姫の尾ひれのようで可愛らしくもありながら気品があった。
「すっごくお姉ちゃんに似合いそう。私はこういうの着れないだろうなぁ。羨ましいー」
 私はお母さんの小柄なところが似たのか、背は低めだ。太ってはいないけど、お姉ちゃんみたいなスレンダーさはない。身長はお姉ちゃんと同じ、お父さん似がよかったな。
「あんたはスカート部分をフリルで豪勢にふわふわひらひらにしたほうが似合うかな。私はそういうの着れないし羨ましいけどなぁ。めちゃくちゃ可愛らしいじゃない」
 確かに、自分が着るという前提で選ぶなら、フリルを遠慮なく重ねた可愛らしいプリンセスラインだろう。可愛い華やかだし、私だってそういうのは好きだ。対してお姉ちゃんがそういうのを着ると、たぶん似合わない。私がぶりぶりの女の子らしい服を着て羨ましがるお姉ちゃんの気持ちもわかる。自分には似合わないからお互い羨ましがるんだ。
「吾朗さんとドレス選びに行く時、ふりふりなのも着てみれば? せっかくなんだし、いろいろ着た方が楽しいし五郎さんも喜ぶよ」
「そうかな? 似合わないだろうけど着てみたいもんねー。時間あったら頼んでみるわ」
 ほんのりと頬を染めたのは、吾郎さんの反応を想像して照れたんだろう。私もあの人がお姉ちゃんのいろんなウェディングドレス姿を見て幸せそうな微笑を浮かべる様を想像して……、ぐりぐり思い浮かんだ表情を塗りつぶした。
「そうしなよ。でも最終的に選ぶのはマーメイド希望」
「私も」
 ふふっと二人で笑いあって、ページをめくってさらに結婚式の話に華を咲かせる。ドロドロした私の心なんて欠片も見せず、楽しそうに笑う。

 ――この光景を見たら、吾郎さんはどう思うだろう。

 ***

 私があの人と出会ったのは、バラの香りでむせ返る庭園だった。
 一般公開されているこのバラ園は、満開な季節になるとたくさんの人が足を運んで、バラの美しさや香りを楽しんでいく。私は中学生の頃からここのバラが好きで、よく足を運んでいた。そのうち、この庭園自体が気に入って年中暇があれば来るようになっていた。
 満開のこの時期は、いつも閑散としてまったりした空気を持つここも、バラの華やかさもさることながら、人の多さで賑やかだ。普段の落ち着いた雰囲気も好きだけど、この賑やかさだって嫌いじゃない。
 ベンチに座って持参した水筒から温かなカフェオレをコップに注ぐと、真っ青な空を仰いでほっこりする。
 そんな私の隣に、一言断って腰を下ろしたのがあの人だった。
 座るなり鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出して、真っ白な紙の上に線を重ねていく。このベンチは、バラ園が一番綺麗に見渡せる場所だと知っていてここに陣取ったんだろうか。
 実はここは、小高い丘みたいなものだ。入り口のあるあたりには池があり、そこから段々畑みたいにバラや花や草が植えられている。私達が座るこのベンチは、その上のほうにあって眼下にバラ園が一望できる。しかも皆がよく通るルートから少しはずれた場所にあるから、人はあまり来ないし穴場なのだ。
 さり気なくスケッチブックを見ていたら、描かれていくのは景色というより、その景色を楽しむ人々のように思えた。目がいいのか、それともここから見えるものから想像して描いているのか定かではないけど、バラに笑いかけるご婦人や、その横を元気に走っている子どもや、私達のようにベンチに座っている老夫婦とかをメインに描いている。一枚描き終われば、また一枚。すごく細かく描きこむわけではないようで、さらっと描いては次。延々そんなことを繰り返していた。
 気づいたら水筒の中のカフェオレがなくなっていて、しかも空が赤く染まり始めていた。隣を気にしつつまったりしていたら、いつの間にかえらく時間が経っていたらしい。
 少し冷えてきたしそろそろ帰ろうかな。そう思って水筒を鞄になおしていたら、隣もようやくスケッチブックを閉じた。
「――あの」
 声をかけたのは、たぶん無意識。
「よければ見せていただけませんか? そのスケッチブック」
 びっくりとした顔で、でもどこか照れた笑顔で、手渡されたスケッチブックが、とてもうれしかった。

 それから私達は、このバラ園でよく会うようになった。バラが盛りを過ぎて、いつもの静けさを取り戻した後ですら。
 私より二つ上の大学四年生。専攻は違うけど、お姉ちゃんと同じ大学だったから余計に親しみがわいた。
 絵を描くのが好きだとは言うけど、美術を専攻しているわけでもないし、美術サークルに入っているわけでもない。本当にただの趣味らしい。まあ確かに、失礼ながらすごく上手いというわけでもなかったから納得。
 ベンチに座って、それか二人で庭園を歩きながら、私達はいろんな話をした。女子大に通う私には、男の人とこんなにたくさん話すことなんて高校以来だ。大学のこと、好きなスポーツのこと、家族のことや友達のこと。意外と話は尽きなくて、気がつけば毎週日曜の朝は二人で散歩することが暗黙の了解になっていた。
 好きになったのは必然だ。あの人の低く穏やかな声に、茶目っ気を含んだ柔らかな笑顔に、ゆったり流れる空気に、恋することは必然だった。
 大学は知っていても、家の場所は知らない。携帯のメールアドレスは知っていても、番号は知らない。とても近く感じるけど、実はあまりよく知らない人。それでも恋することに、なんの支障があるというんだろう。
 この暗黙の了解が続くことを願い、反対に関係をすすめたいとも願う。告白をして振られてしまえば、会うことはなくなってしまうだろうからなかなか決心が付かなかったけど、それでもきっと、あの人だって私を憎からず想っていてくれる。そう、信じた。

 好きです、付き合ってほしい。そう告白したら、あの人はひどく驚いた。まるで予想もしていなかったという顔で、さすがに私もショックだった。
「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだ……」
 困ったように視線を泳がせ、同じ大学に恋人がいることを教えてくれた。彼女のことが心から大好きで、卒業して仕事が落ち着けば結婚したいと思っている。そう言ったあの人は真剣で、嘘はこれっぽっちもなかった。
「じゃあどうして、毎週二人きりで会ってくれたの?」
 そんなもっともな疑問をぶつける。私が恋をして、そしてきっと向こうも想ってくれているだろうとうぬぼれることができたのは、この暗黙の了解があったからだ。
 あの人は、言いにくそうに言葉を濁して俯く。まるで言ってもいいかと悩んでいるようで、私は少し強く答えを促した。そして紡がれた言葉に耳を疑う。

「お姉ちゃん……?」

 ぐらりと、世界が揺れた。

 ***

「でもさ、こんな早く結婚しちゃっていいのかな」
 雑誌をめくりながら、お姉ちゃんは呟いた。
「……向こうのご両親も喜んでるし、いいんじゃない? もう二年だよ。いつまでも煮え切らないほうが弟さんだって困るんじゃないかな」
「うん、そうなんだけど……。なんか吾郎が気にしているっぽいから」
「双子なんだし、思うところは色々あるでしょ。弟さんも卒業して落ち着いたら結婚する恋人がいたらしいし、お互いの結婚の時期は被ったんじゃないかな。だから吾郎さんも『もしかして』って考えると落ち込むと思うよ」
「うん……」
 しょんぼりとうな垂れてしまうから、きっとお姉ちゃんはその辺の心境について一人で抱え込んでいる吾郎さんを心配しているんだろう。
 違うんだよ、とは言わない。お姉ちゃんに言いたくないわけじゃなくて、ただ言えないだけだ。そして吾郎さんが苦しんでいるのは、私という存在があるからだ。お姉ちゃんは、知らないけれど。

 ***

 あの人が死んだのは、私が想いを告げた三週間後だった。
 お姉ちゃんが、恋人の弟が亡くなったと真っ青な顔で言ったのを聞いて知った。私はその人のことを知っているとは一言も言わず、ただお姉ちゃんを落ち着かせようと抱きしめ、お通夜に行く服を用意し、見送るだけだった。
 死んだ。あの人は死んだ。たまたま会った女の子が、兄の恋人の妹だと知って近づいてきたあの人は死んだ。大学からの帰り道、運悪く交通事故にあって死んでしまった。
 涙すら出てこない衝撃というものがあるんだと、初めて知った。
 息すらできなくなりそうな痛みに慟哭しても、ほとんど気を失うような眠りしか訪れなくても、部屋を出れば普通の顔をしなければならなかった。それでも、私とあの人が面識あることを、お姉ちゃんに知られたくなかった。
 ぐらぐらする視界を堪えながら、日曜になると往生際悪くあの人といつも待ち合わせしていた場所に向かう。告白して振られてから一度も足を運んでいないし、あの人だって来てはなかっただろうけど、もしもを望んでベンチで祈った。
「君が香織ちゃん、だよね?」
 そしてかけられた声に、息を呑む。あの人の声だ。急いで振り返れば、あの人が居た。ああやっぱり夢だったのかな。あの人はお姉ちゃんと面識なんかなくて、恋人だっていない。告白だってしてないし、振られてもいない。そして何より、死んでなんかいない。
 一気に駆け巡った言葉は、けれどすぐに消える。だってわかってる。わかってるんだ。わずかに自信のなさそうな声で、私が香織だと確認してくるのはあの人じゃない。お兄さんだ。お姉ちゃんの恋人だ。
「姉から……、聞きました」
 震えてしまった声が、悔しい。
「……これ、あいつが君に送るはずだったものなんだ」
 お兄さんの声も震えていたけど、私は気づかないふりをして差し出された携帯を手にする。表示されているのは、未送信のメールだった。
「ごめん、君を傷つけるつもりはなかったんだ。仲良くなってからお互い鉢合わせて、ビックリさせようとした。……最低だった。ごめん」
 お兄さんの言葉を聞きながら、あの人のメールを読む。つらつらと綴られた後悔と謝罪。振られた時にも聞いたことが、悔恨と共に改めて書かれていた。
「あいつ君のこと気に入って、義兄妹になれるの喜んでた。だからまさか、君が自分に好きになるとか思ってなかったんだ」
 そう、お兄さんとお姉ちゃんが結婚したら、私とあの人は義兄妹。悔しいくらいに最初から対象外だった私。
 ずるい。ずるいよ。罵りたいのに、死んでしまったら何も言えない。がんばって彼女から奪おうとしても、死んでしまったら何もできない。いろんな想いが向ける相手をなくしてぐるぐる体の中を暴れて痛いよ。
 痛みを吐き出すように大きく息をついてから、未送信のメールを自分の携帯に送信した。携帯は押し付けるようにお兄さんに返して、私は言葉を搾り出す。
「姉には、何も言わないで下さい」
 私があの人と面識があったこと、私があの人に恋をしたこと、私があの人に傷つけられたこと、私がお兄さんに今日ここで会ったこと。
「次に姉の紹介で会った時が、私達の初対面です。私は姉からの話でしかあなたのことを知らない。あの人のことを、知らない」
 ぼたりと、涙が零れた。あの人が死んだと聞いてから、一度だって流れなかった涙が溢れ落ちる。
 だって、だって……、私はこの恋が大切だった。恋したことを、否定なんてしたくない。否定したくないけど、耐えられないよ。もしお姉ちゃんに知れてしまえば、きっと同情される。そして私の立場に立って、怒ってくれる。なんて惨め。なんて屈辱。そう感じるであろう自分が、一番嫌だった。
「私があの人が好きだということは、私だけが知っていればいいんです」
 あなたも忘れてしまえと言外に滲ませれば、お兄さんは「ごめん」と囁く。私は、頭を下げてその場から逃げ出した。

 ***

 幸せそうなお姉ちゃんを見るのは嫌いじゃない。私だってうれしい。でもその隣に並ぶのが吾郎さんだと、否応なしに思い知ってしまうのが苦しいんだ。
 私があの人を忘れるには、二年はまだ短い。だって仕方ないよ。恋した人と同じ顔をした人がお姉ちゃんの恋人で、さらには結婚までするんだから。
「吾郎さん、これから家に来るし香織もいればいいのに」
「もー、もっと早く言ってくれたら予定空けてたのにさぁ」
「だって急だったし」
 お互いの両親への挨拶は済んでから、吾郎さんがうちの夕食に顔を出すことが時折あった。その全てというわけには行かないけど、半分は何かと理由をつけて出かけるようにしている。私が居ない食卓で、吾郎さんはほっとしているのだろうか。それとも、罪悪感に苦しんでいるんだろうか。わからないけど、私はまだあんまり顔を合わせたいとは思わない。
 好きだった。恋してた。実ればいいと願ってた。あの時の想いは本物で、それが踏みにじられたことが悲しかった。あげく二度と会えない人になってしまって、どうしていいかわからなくなった。なのに同じ顔の吾郎さんが目の前にいると、ぐるぐるわだかまる想い全てをぶつけてしまいそうで怖い。吾郎さんはあの人じゃないし、私は吾郎さんには恋してないのに。
 いつになればこの恋は朽ちてくれるんだろう。中途半端に放り出され、逃れられない残像に、何度だって引き戻され恋は恋のまま褪せてはくれない。

 ――好きでした。本当に大好きでした。

 携帯を買い換えた後も残る、あの人からの謝罪メール。これを消す日には、私は別の恋を見つけているのかしら?


 久々すぎる……。更新どころか、女の子の一人称と悲恋を書くのも久々だぁ。

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