あたりまえの温もり

掲載日:2009-12-12

 座って映画を観ていると、背中からギュっと抱きしめられた。ウエストに腕を回されて頭の上にあごを乗せられてしまうのは、いつものことだ。
 四年前から当たり前のように背中から抱きしめらるようになったけど、私と正樹は恋人同士じゃない。だからキスなんてしたことないし、こんな密着した体勢ながら胸とかに触られたこともない。なんだかぬいぐるみにでもなった気分だけど、そうやって抱きしめられることは嫌じゃないから別にいい。
 少しだけお尻を動かして楽な体勢になると、背中を正樹に預けて映画に意識を戻した。

 癖のないサラサラの黒髪やインドア派のためか色白が羨ましい。私よりは大きいけど、年齢のわりには小柄。中学から掛けている眼鏡をコンタクトにする気はないらしい私立高校の二年生。
 運動は苦手だけど、県内でもレベルの高い進学校にいながら成績は上位。日本茶が好きで和菓子を好むとこが年寄りくさい。活動的ではなく、いつも家で本を読んだりパソコンをいじったりしている。人当たりは悪くないけどなんだか淡白で、私の知っている同世代の男子とは違う空気を持ている。
 小学校の頃から私立に通う正樹とは一度も同じ学校に通ったことはなくて、友達がいる気配が見えないことに心配したりもした。情報によれば、孤立しているわけでも友達がいないわけでもなく、県内有数の進学校だからか学校以外での付き合いが希薄な生徒も珍しくはないらしい。

 それが一つ年下の幼なじみ、落合正樹だ。

 同じマンションの隣に住んでいて年が近い私達は、物心つく頃には自然と一緒に過ごすようになっていた。正樹の両親は仕事好きでほとんど家にいないかったため、私の家で面倒をみていたからだ。
 もっとも、私の家も母子家庭なのでお母さんが仕事で帰りが遅くなることが多かったし、面倒を見ていたのは一緒に住んでいた私のおばあちゃんだ。
 そのおばあちゃんも私が中学二年になって間もなく亡くなってしまった。けど、それ以降も私達は夕食は一緒に食べるし、休日は一緒に過ごすことが多い。
 今はもうお互い高校生だし一人で食べてもいいのだけど、一人分作るより当番を決めて二人一緒に作ったほうが楽だから一緒に食べている。
 そんな理由で家族のように育った正樹には、気を使わなくてもいいし一緒にいると楽だ。年頃になったら幼なじみでも距離はできるものだろうけど、私達はずっと学校が違うのだ。周りの目を気にしたりして気まずくなる要因がなかった。
 中学時代は私が部活をやってたし塾にも行っていたから夕食を一緒に食べることは減ったけど、高校に入ってからは帰宅部なのでまたペースが戻った。それでも一時期は彼氏がいたし休日は会わないことも多かった。でも別れてからは予定がない限り正樹の家に入り浸りテレビを見ている。だって、正樹の家はのテレビはチャンネル数が多いし。
 今日も私の家じゃ見れないチャンネルでやっている映画を見に来ていた。
 その映画ももう終わりだ。エンディングロールの途中でテレビを切ると、正樹は腕を緩めて私を解放した。まだ映画の余韻を引きずってはいたけど、ずっと同じ体勢だったから疲れたしから立ち上がって背伸びをする。正樹も疲れたのか、キッチンに行ってお湯を沸かしはじめた。
「なに飲むの?」
「緑茶。ういろうあるけど食べる?」
「食べる。でも私はコーヒーにするね」
 和菓子好きの正樹のために、この家にはかなりの確率で和菓子がある。というか、図書館と学校にしか行かないような正樹だが、和菓子やお茶葉を買うためなら電車に乗って気に入っているものを買いに行っている。
 私はお茶も和菓子も好きだけど、今日は午前中に正樹の淹れたお茶を飲んだ。だから午後はコーヒー。ついでに夜は紅茶。私は温かい飲み物が好きなのだ。まあ、苦いのは苦手だからコーヒーはミルクたっぷりだし、紅茶も砂糖たっぷりだけどさ。
 お湯が沸いてそれぞれ自分の飲み物を作ると、切り分けたういろうと共にテーブルについて食べる。白い普通のういろうと、黒砂糖を使ったういろう。個人的には白い普通のが好きだ。あと栗が入っているのとか。
「……百合は大学どこ受けるの」
 しばらく無言で食べていたが、ふと正樹が尋ねてきた。
「国公立に行きたいけどどうかなぁ」
 一ヶ月前に受験生となった百合の成績は、悪くもないけど良くもない。私立の滑り止めを受けるのもいいけど、受験料と入学金とかお金がかかってしまう。だからといって浪人するのも嫌なので、志望校選びには頭を悩ませているのだ。
「史学科ってのは決まってるけど、どこの大学かは決めていない」
 歴史の勉強をしたいから、ぜひとも史学科希望だ。ついでに分野は日本史。西洋史も好きだけど、せっかく日本に住んでいるんだから日本について勉強したい。
「いっそ京都とか奈良の大学に行こうかなぁ」
 興味がある時代もそっち方面だし。
 そう思ってなんとなく口にしたんだけど、ピタリと正樹の動きが止まった。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
 ちょっと気になったけど、なんでもないと言うならスルーしたほうがいいのだろう。
「正樹は大学行ってやりたいことあるの?」
 進学校で常に上位をキープする正樹なら、トップレベルの大学でも合格圏内かもしれない。
「まだ分からない」
 まだ高校二年だしそんなものだろう。私だって史学科希望にしたのは三年の春休みだ。正樹は進学校だから今でも志望校とかの提出はあると思うけど、レベルの高い大学となんとなく興味のある学科を書いて提出すればいいと前に言ってたし。
「ま、ゆっくり考えればいいよ」
 私はそう言って、別の話題を話をはじめた。

 おやつも終わって、夕食を作るまでの半端な空き時間に家から持ってきた化学の参考書を開いた。化学は苦手だ。というか理系科目は全般的に苦手だ。文系科目だけなら成績は上位なのに、理系科目で順位を大幅に下げている。
 いつもなら化学の参考書なんか読んでいたら眠くなってしまうのだけど、今は正樹に後ろから抱きしめられている状態なので寝たりはしない。そこまで無防備じゃないし、せっかくなので正樹に教えてもらったりできるし。……年下に教えてもらうのもどうかと思うけど、そんなことで意地を張っても仕方ないしね。
 最初のうちは正樹も私の質問に答えてくれたのだけど、途中で返事が返ってこなくなった。体をひねって確認すると、寝ていた。こういうことはたまにある。疲れていたり、(本人は認めないけど)甘えたい時は、私を抱きしめたまま寝てしまうのだ。別にいいけど、どうしてこう無防備なのかしら。
 さらさらとした正樹の髪に触れて、そっと撫でる。とても近くて大切な男の子。その男の子が私を抱きしめるようになったのは、私のおばあちゃんが死んでからだ。
 親子仲は良くてもあまり家にいない両親とは別に、いつも一緒にいたおばあちゃんや私に懐くのは必然だ。淡白で喜怒哀楽がはっきりした子ではなかったけど、日本茶好きや和菓子好きはおばあちゃんの影響だという点からも正樹のおばあちゃんへの懐き具合は窺える。
 優しくておっとりしてて料理が上手でいろんな昔話をしてくれたおばあちゃんは、正樹が中学に上がってしばらくしてから亡くなった。
 私は悲しくて悲しくてたくさん泣いたけど、正樹は泣かなかった。俯いたまま何も言わなかった。というか、喋らなかった。お通夜とお葬式がすんでからも、正樹はほとんど喋らない。部屋に閉じこもってぼんやりしていることが多くなった。
 最初は自分のことで精一杯だったけど、一週間もすれば少し落ち着いた。そしてふと思い返して、お葬式の後から正樹と話していないことに気がついたのだ。
 私は慌てて正樹の部屋に走った。お母さんも正樹の両親も私達のことを気遣ってくれたけど、ずっと仕事を休むわけにはいかない。だから今、正樹は一人だ。
 久しぶりにまともに見た正樹は、ベットに仰向けになってぼんやり天井を見ていた。私が入ってきたことには気がついているだろうに、視線も向けない。私は無理やり腕を引っ張って体を起こし、目を合わせた。
 力のない瞳。けれど私に焦点が合うと、瞬きを繰り返して視線を彷徨わせた。その瞳に悲しみや混乱が揺れるのを見て、感情はマヒしていなかったらしいと安心した。
「まだ泣いてないんでしょう?」
 当時は私より背が低かった正樹を引き寄せて、抱きしめた。
「泣かなきゃならない時だってあるんだよ」
 子供をあやすように、背中をさする。正樹は抵抗しなかった。
「泣いていいんだよ」
 しばらしくして聞こえてきた嗚咽。私の胸で堪えるように泣く一つ年下の幼なじみの気がすむまで、私はずっと背中をさすり続けた。
 そんなことがあった次の日には、正樹はケロリと復活していた。目元に泣いた名残がなければ、昨日のことは夢だったんじゃないかと思うくらいいつも通りだった。――私達の間におばあちゃんがいないことを除けば。
 中学に入ってから正樹と夕食をとる回数は減っていたけど、塾がない日は私が作って二人で食べるようにした。私が塾の日は、正樹が作ったものを帰ってきてから一人で食べた。そんな風にサイクルを決まった頃には、おばあちゃんがいない日常にも慣れてしまった。

 そんなある日、正樹は本を読んでいた私の背中に抱きついてきた。あの時は身長の関係上、『抱きしめる』じゃなくて『抱きつく』だ。けどどっちにしろ私は驚いて本を落とした。でも正樹は何も言わないし、離れない。
 中学二年と一年だ。もう必要以上のスキンシップをする年ではない。私は慌てたしドキドキした。背中に感じる温もりに、動揺した。
 だけど、最終的には諦めて正樹のやりたいようにさせた。その理由は、正樹は私のことを異性として認識していないことに気がついたからだ。いやらしさなんてなかったし。というか、いやらしいことに思考が到達した自分が恥ずかしい。正樹は弟みたいなものだし、そんなことに思い至るほうがどうかと思う。
 事実、私の身長を越して『抱きしめる』ようになった後でも、正樹は変わらない。どうしてこんなことを未だに続けているのかは分からないが、それで気がすむなら別にかまわない。
 けどこの行為も、私が高校二年になって彼氏ができた時は途絶えた。週に一回くらいは正樹に抱きしめられたけど、彼氏ができたと報告した以降は必要以上に触れなくなった。まあ、正樹も高校生になったことだし、彼氏に対する遠慮とかが原因だろう。少し寂しかったけど、正樹も成長したんだなと微笑ましくもあった。
 けど彼氏と別れたと報告してからはまだ抱きしめられるようになった。しかも、週に一回くらいだったのがほぼ毎日になったというオマケ付きで。今まで甘えなかった鬱憤が溜まっていたのだろうか。
 回数が増えたこと以外は、日常に戻った。戻ってみると、彼氏と付き合っていた頃よりも今の方が自然で穏やかで幸せだと感じる自分がいる。だからきっと、別れたことは間違っていないのだ。

 私は時計が五時を指すのを確認してから、正樹の腕をペシペシ叩いて「ご飯作るから放して」と起こすことにした。

 ***

 「ご飯を作るから放して」と、百合を拘束していた腕を叩かれ起こされた。要求通りに解放すると、立ち上がって伸びをしてからキッチンに消える。
 おばあちゃんが生きていた頃は、基本的には百合の家でご飯を食べたり遊んだりしていた。だけど、おばあちゃんが死んでからは俺の家にその場は自然と移った。百合が塾に通っていたためだ。
 部活から塾へと直行し、帰ってくるのは十時すぎ。週三回の塾の日には俺が料理をしたが、住人のいない百合の家で料理を作り食べるというのは気が引けたから、自分の家で作って食べた。そして百合の分はそのまま残しておいて、帰宅後百合が俺の家に食べに来るというのが日常的になったのだ。百合が料理する日は、俺の家だったり百合の家だったりとまちまちだったが、百合が高校に入ってからは基本的には俺の家になった。

 百合が料理をする音を聞きながら、深く息を吐く。まだ体には百合の熱と香りが残っている。三年も前から自分の腕に百合を閉じ込めるようになったのに、いまだ慣れない。
 まさか本当に、異性として見てないと思っているのだろうか。
 初めて自分から抱きしめた――いや、体格的に『抱きついた』――時から、百合を異性として意識していた。最初こそ驚いて微妙に抵抗した百合だが、すぐに警戒を解いて受け入れるのはどうかと思う。
 そりゃ、あの頃は明確に情欲を自覚したわけではなくて温もりを感じたかっただけし、おばあちゃんが死んで間もなかったから俺の不安定な精神を考慮してのことだろうけど、俺のことを異性として認識していないのは百合だとはっきり分かった。
 少女から女に成長していく百合への情欲を自覚するには時間はかからなかったし、俺が中学二年になる頃にははっきりと百合が欲しいと思うようになった。
 でもそれを百合に悟られるわけにはいかなかった。幼なじみ、弟、家族。そのあたりの認識で心を許される身の上でこの暗い欲望を曝け出せば、きっと百合は拒絶する。動揺して困惑して俺と距離を置く。
 幸か不幸か、俺の理性ギリギリのところで身を護るだけの無意識の防衛本能はあったらしい。俺の腕の中に完全に身を預けはするが、決してそこで眠ったりしない。むしろ、俺と二人きりの時に眠ることは滅多にない。いつだって無防備な姿で俺の前にいるのに、本当の意味で無防備な姿は晒さない。
 それが良いのか悪いのかは分からないが、少なくとも本能的に俺のことを異性として認識しているだけ良いのかもしれない。
 どちらにせよ、俺はこれ以上動けない。何故なら俺は壊したくなかった。壊すのが怖かった。――今の百合との近すぎる関係を。

 けれど一時期、俺の理性はだいぶ危うかった。一年ほど前に「彼氏ができたの!」と報告してきてから、別れるまでの間だ。
 初めて彼氏というものができた百合は本当にうれしそうで、こちらの動揺や嫉妬を押し隠して「よかったね」というだけで精一杯だった。
 いつか百合にも好きな人ができて、誰かと付き合うかもしれないなんて分かりきっていたことだ。なのに実際それを百合から告げられると、腹の底で醜いものが噴出し、頭は怒りで支配された。
 俺じゃない誰かが百合の瞳に映り、心と思考を占領し、その体に触れるのかと思うと、今すぐそいつを殺してやりたかった。
 それからの百合の生活サイクルは変わった。部活はしていないのに、帰りが遅くなる。遅くなるといっても俺ととる夕食の時間には帰ってくるが、その前に俺の家でダラダラとテレビや本を見ることは少なくなった。休日は休日でおしゃれをして出かけ、時折しか俺の傍でくつろがなくなった。
 急速に離れていく百合を引きとめはしなかった。そして、背中から抱きしめもしなくなった。引き止めれば、抱きしめれば、自分が簡単に理性を手放してしまうことが分かっていたからだ。
 俺以外が百合に触れているなんて想像するだけで吐き気がした。百合の意思も気持ちも無視して、強制的に暴力的に百合を自分のものにしてしまいたかった。
 でもその激しい衝動も、押さえ込んで耐えた。そんな形で百合が欲しいわけでも、壊したいわけでもなかった。俺にとって唯一絶対大切なものは百合で、その百合が自分の幸せを歩いているならそれを邪魔できない。したくない。
 全てを飲み込んで、これからもずっと幼なじみとしてでいいから傍にいたかった。
 そして三ヵ月後、百合は彼氏と別れた。理由は知らない。答えたくなさそうだったから、問い詰めなかった。代わりに、昔のように百合を抱きしめる。いや、昔以上に。
 週に一回ほどに押さえていた枷を外し、抱きしめられる時はいつでも抱きしめた。薄い膜一つで踏みとどまる情欲を持て余しながら、文字通り腕の中に『閉じ込める』。
 俺以外見てほしくない。俺以外に心許してほしくない。俺以外を想ってほしくない。俺以外に――その身を許してほしくない。
 馬鹿らしいほどの独占欲。百合が好きなのか自分が好きなのか分からなくなるほどの、幼稚で傲慢な独占欲。その紛れもない本心に、恐ろしくなる。いつか百合を傷つけてしまうのではないかと、恐ろしくてたまらない。

 そんな気持ちを知らない百合は、俺の危うく保つ理性をあっさりとぐらつかせた。
『いっそ京都とか奈良の大学に行こうかなぁ』
 その言葉がその場の思いつきで出たことだとは分かっている。けれど、今まで故意に無視してきた現実を突きつけるには十分だった。
 ――百合は、その気になればあっさりと外に出て行ってしまう。
 誰かに奪われるとか、そんな問題じゃない。俺がいなくても一人で生きていけることを、暗に示したのだ。幼なじみとしてでも弟してでも、なんでもいいからいつも傍にいる。それすら許してくれないところに、百合は行ってしまうかもしれないのだ。
 追いかけるなんてできない。追いかければ、今度こそ離せなくなる。衝動に身を任せてしまう。だから、追えない。

「正樹!」

 キッチンから声がする。料理ができたのだろう。
 俺はもう一度深く息を吐いてから、立ち上がった。

 ***

 夕食を食べて、食後のお茶を飲んで、食器を洗った後は、だいたい十時頃までダラダラと正樹の家にいる。その後、家に戻ってお風呂に入って寝る。それが最近の日常だ。そして今日も、いつもの通り食器を洗ってから正樹の傍でダラダラしていた。
 だけど、正樹が変だ。私と目を合わせてくれない。
 それに気が付いたのは夕食を食べる時だ。ご飯の時、話をしないことはよくあっても、こうも目を合わせてくれないのは珍しい。食後のお茶の時も、食器を洗い終わって傍に座った時も、何故だか目を合わせてくれない。
 おやつを食べた時は普通に目を合わせてくれた。その後は抱きしめられていて目を合わすことができなかったから、どうだか分からない。少なくともその時からか、はたまた目が覚めてからか。どの時点からだったかは定かではないけど、怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。
「ねぇ正樹」
 呼びかける。
「……なに」
 数拍置いてからの反応。
「こっち見て」
 横顔に躊躇いが浮かんだ。
「見て」
 もう一度強く言うと、やっと正樹は私を正面から見る。
「私なんか怒らせることした?」
 問いかけると、正樹は困惑した表情で眉間にしわを寄せた。別に怒ってはいなかったらしい。
「怒ってないなら、どうしたの?」
 再び正樹の視線が私から外れる。
「……言いたくないなら、いい」
 だからと言って怒るのは大人気ない。だけど拗ねた口調になってしまうのは仕方ない。正樹に背を向けてテレビのチャンネルを回して気を紛らわせよう。
 背中に正樹の視線を感じたけど、向こうから離しかけてくるまで振り返ってなんかやらない。

 正樹は私に対してマイナスの感情はあまり見せない。男の子だから、女の私に見せたくないのだろうか。どっちにしろ、一番近いところにいるはずの私を頼ってくれないのは寂しい。
 だから抱きしめられるのを拒まないのかもしれない。その行為は、私を頼って心を許している明確な証だから。
 夕食前だって私を抱きしめたまま眠ってしまったのは、悩みがあったから安らぎを求めたのだろう。正樹は何も言ってくれないけど、それでも私を頼ってくれているには違いないのに。それでも私は、何か悩んでいる正樹が相談してくれない。むしろ触れてほしくないと思っているのが嫌だった。だから拗ねた。
 ただ眺めているだけに等しいテレビの音だけが、部屋を満たしている。ずっと剥がれないん正樹の視線が気になって、気を紛らわすことができない。もはや『振り向かない』ではなく、『振り向けない』。よくわからない緊張に支配されて身動きが取れない。
 正樹は背を向けた私を見ている。――いや、本当は見てないかもしれない。視線を感じると思うほど、私が勝手に意識しているだけだとしてもおかしくない。
 頼ってほしいのに頼ってくれない正樹に苛立ったはずなのに、今は違う意味でなんだか泣きたくなった。

 初めて彼氏ができた時、本当にうれしかった。ほのかに憧れていた人から告白されたのだ。うれしくないわけがない。そんな気持ちを聞いてほしくて、正樹に報告しに行った。学校の違う正樹の方が、友達よりもこの手の話題を話しやすかったからだ。
 もっとも、正樹は「よかったね」とは言ってくれたけどたいした反応は返ってこなかった。分かっていたけど物足りない。幼なじみのはじめての彼氏に、ちょっとは関心を抱いてくれてもいいのに、正樹は一切彼に関しては尋ねなかった。
 彼氏ができてからは正樹と過ごす時間は減ったけど、最初のうちは楽しくて気が付かなかった。でも二ヶ月くらい経った頃から、私は息苦しさを感じはじめていた。
 正樹は正樹で、過ごす時間が減ったことに対して何も言わなかった。気にならないのかもしれない。それに、抱きしめられることもなくなっていたし、急に正樹が遠く感じた。
 離れたのは私だ。それは分かってる。でも、なんだか正樹の方が離れていってしまっているようで寂しかった。
 破局が訪れたのは、三ヶ月経つか経たないかのある日。彼の部屋で、彼に抱きしめられて、彼とはじめてキスをして、彼に肌を触れられた時だった。
 ――体が硬直した。肌が粟立った。恐怖と嫌悪が突き抜けた。
 気が付いたら私は彼を突き飛ばしていて、拒絶の言葉を口にしていた。そし彼と私は終わった。
 好きだった。そして好かれていた。彼は別に乱暴でもなかったし、強引でもなかったし、無理やりでもなかった。同意の上だったのに、実際に触られた途端、『嫌だ』と思った。
 この人には触れられたくない。この人には許したくない。私に触れていいのは――。
 愕然とした。私の脳裏に浮かんだその名前に、頭が真っ白になった。
 私に当たり前に触れる人。背中から抱きしめて、温もりを分けてくれる人。私はその人のことを、どう想っている? 幼なじみ、弟、家族、それとも――。
 認めるまで、時間はかからなかった。

 そっと息をついて、身体の緊張を解く。背中に感じる視線。正樹は本当に私を見ているのだろうか。確かめよう。確かめて、湧き上がる気持ちを押し殺そう。そして笑って、機嫌は直ったことを伝えよう。
 そうと決まれば、即行動。テレビを消して振り返った。

 ***

 百合を怒らせた。危うい理性を保つために、意識的に目を合わせなかったのがまずかったらしい。
 怒る前の少し傷ついた顔に胸が痛んだ。でも、そんな顔にすら醜い感情が疼く自分に嫌気が差す。俺はきっと、恐怖に引きつった百合の顔を見てでも煽られる。汚すぎて吐き気がする。
 突き放せもしない。諦めもできない。情欲も抑えられない。こんな俺が百合の傍に居続ければ、遠くない未来に一線を越えてしまいそうだ。
 テレビを見ている百合の背中が、どこか固い。こういう空気をまとって背を向けた時は、こちらから声をかけないと振り向いてくれない。だからと言って、今すぐには声はかけれない。揺らいだ理性を押さえつける時間がほしい。いつもみたいに押し込めて、名前を呼んで、ごめんと伝えて、それから――。

「正樹」

 百合の声に、ビクリとする。ずっと百合の背中を見ていたから、振り返った百合とはまともに目が合った。そのことに少し驚いたように、百合が眼を見開いたけど、すぐに目を伏せられた。
「怒って、ごめんなさい」
 ぽつりと百合が言う。なぜ百合が謝るのだろう。正樹が百合の目を見ようとしなかったのは本当だし、正直今だって逸らしたくてたまらない。けれど逸らせばさっきの二の舞なので、なんとか堪える。
「その、なんか悩んでるみたいなのに私には頼ってくれないんだなーって思ったら寂しくて、だから、その……ごめんなさい」
 言っているうちに恥ずかしくなってきたらしい。徐々に百合の頬が赤く染まっていく。
 百合は何を考えているのだろう。そんな言葉を、そんな顔で、そんな声で、まるで俺の理性を焼ききろうとでもしているのかと思うほど――。
「何に悩んでるか知らないけど、私にできることがあったら頼ってね。正樹のためなら何だってするから」

 それが、限界だった。

 ***

 気が付いたら頭を押さえつけられていた。腰に腕を回されて、正面からきつく抱きしめられている。――いや、そんなことよりもありえない近さにある正樹の顔の方が問題だ。顔どころか、唇と唇が触れ合っている。
 それがキスだと理解した途端、思わず体を後ろ引こうとした。でも強い力はビクともしない。
 徐々に深くなるキスに私は焦った。貪られるような感覚に体が熱くなる。思わず漏れた声に羞恥は加速する――!

 はじまりと同様に、終わりも唐突だった。

 離れた唇と、緩んだ腕。力の入らない私の体は支えを失って、前のめりにかしいで正樹の胸に倒れこんだ。自分の荒い息に気が付くと、顔を上げられない。
 正樹が何を考えているのか分からなかった。今まで、当たり前みたいに背中から抱きしめていた時は、私のことを異性だとは思っていないような態度だったのに、なんで突然キスをするんだろう。
 そういえば、正面から抱きしめられたのは初めてだ。あの日、抱きしめたの私。その一度きり。
「なんで……」
 無意識に言葉が零れた。それに反応するかのように、再び正樹の腕に力が入った。引き剥がされるように肩を押されたと思ったら、そのまま床に仰向けとなる。私の顔の横に手を付いて、覆いかぶさるみたいに私のことを見下ろす正樹。
 私は呆然と正樹の顔を見上げた。その目に、今まで見たこともない熱を見つけて、体が震えた。

 ***

 仰向けのまま呆然と俺を見つめる百合の目に、恐れがないことを確認して安堵した。
 いや、問題はそんなことじゃない。衝動のままに無理やりキスをした。そしてあまつさえ、押し倒している。これから俺はどうしようっていうんだ。突き進むか? いやいや、そんなことしたら本当に取り返しが付かなくなる。
「正樹も」
 ふいに百合が言葉を発した。
「私のことが好きなの?」
 そしてストレートな質問をぶつけてきた。とっさに反応が返せなくて、じっと百合を見下ろす。……というか、『も』ってなんだよ。『も』って。
「……悪いかよ」
 居たたまれなくなって悪態をついてしまった。ホント馬鹿だろ俺。
 自分が嫌になって、百合から離れた。百合が起き上がり服を直してから、俺は百合の前に正座をする。
「変なことして悪かった」
 今回は悪いのは、完全に俺だ。これで嫌われて、二度と二人きりになってくれなくなっても仕方ない。自業自得だ。
 そう思いながら頭を下げて落ち込んでいたら、百合が突然ケラケラと笑い出した。一瞬、ショックでおかしくなったかとビビったが、どうも違うようだ。
「あー悩んで損した! そっかーお互い様かー」
「お互い様……?」
「好きだけど、それが自分だけって思って身動き取れなくなってたのが。正樹にそういう対象で見られてるなんて思いもしなかったよ」
「……」
 上機嫌な百合が、とてもうれしいことを言ってくれているのはわかる。でも、状況が飲み込めない。固まった俺に気がついた百合が、自分から抱きついてくる。
「正樹が好きだよ」
 優しい声。暖かなぬくもり。百合の背中に腕を回して、きつく抱きしめる。
「俺も、百合が好きだ。ずっと、好きだった」


もうホント久々の更新だなあ……。大学時代に書いて、ラストがまとまらず放置していたものを完結させました。リハビリにすらならない程度しか加筆してないです。

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