仏頂面の君

掲載日:2008-07-06 〜 07-12

 田山志津子の印象は、"とっつきにくそう"だった。無表情――というよりは、不満を押し殺そうとして失敗した仏頂面。正人と目を合わせようとはせず、応える声も硬い。ピンと伸びた背筋は、姿勢が良いというより緊張しているといった感じだ。
 こんな不機嫌そうにされる理由が分からない。約束した時間より早めに待っていたし、別に粗相もしていないはずだ。公務員だし仕事の能力もそれなりに評価されているし素行も悪くないし外見もまあまあで愛想はいい。だから、事前に人から話を聞いたりしていても、そんな悪い印象は与えないと思っているが、何が悪い噂で出回っているのだろうかと正人は不安になった。
(いやいや、単純にお見合いそのものに不満があると考えた方がいいか)
 そう、今は見合いの途中だった。志津子も最初は、緊張して表情が硬くなっているといった程度のものだったが、世話人に「あとはお若い二人で」とホテルから締め出され二人きりになった途端、仏頂面になった。
「あー……、これからどうします? 行きたい所はありますか」
 ホテルの庭で散歩、などといった定番のコースは世話人や親達のお気には召さなかったらしく、二人で自由にデートでも楽しんできなさいと追い出されてしまっている。なので、これからどうしようかと悩んで志津子にお伺いを立ててみたが、「別に……」と一蹴されてしまった。
(やりにくー。あーもう、別に俺も見合いなんてしたくないのに)
 叔母の顔を立てるために受けただけだ。志津子のほうも、似たような理由で無理やり押し切られたのだろう。お互いにまだ二十代前半なので、結婚したいとか真剣に考えていないと思う。しかしまあ、だからといってあからさまに不機嫌にならなくてもいいのに。こっちだって好きで貴重な休日を潰しているわけじゃないんだし、と心の中で愚痴った。
「映画でも観に行きません? 何か観たいのありますか」
 映画なら、二時間は時間を潰せる。しかも喋る必要がないというのはありがたい。その後、喫茶店にでも入って映画の感想を交えて談笑しお開きにすれば、お互いの顔は立つだろう。
「……なんでもいいです」
 そう言ってくることは想像がついたのでたいして気にせず、ホテルから一番近い駅前の映画館に向かうことにした。今日は休日だしきっと混んでいることだろうから、適当に空いていそうな映画を選ぼう。そしてとっととこの気まずいお見合いを終了しよう。正人はそう決めると、少し大きくなっていた歩幅を志津子に合わせ直した。

 ***

 映画は運良く入れ替え時のものがありそれを観た。洋画モノのラブストーリーで、まあまあおもしろかった。しかし、お見合いの最中に恋愛モノを観るのは余計に気まずいとは分かった。喫茶店では談笑どころか、志津子は店員にメニューを伝える以外の言葉を発してくれなかった。
(あー帰っていいですか?)
 さっきから何度か話しかけはしたが、コーヒーにもケーキにも手を付けずにずっと下を向いて答えてくれない。そろそろ正人の精神疲労もピークに達してしまいそうだ。キツイ言葉の一つでも投げつけたいところだが、イライラよりもめんどくさいという気持ちの方が大きい。もしかしたら志津子には恋人がいて、心の底からお見合いが嫌なのかもしれないし、ここで怒っても泣かせるだけだ。だからとっとと帰りたい。
「そろそろ帰りますか? まだ明るいですが、今の時期は夕方になると一気に暗くなりますし……」
 ビクリと志津子の肩が揺れて顔を上げた。喫茶店に入ってから初めてきたまともな反応に、少し身を引いてしまう。さらに、「あ、の」と初めて志津子のほうから話しかけてきて驚いた。
「本屋に……寄ってください、ませんか」
「ほ、本屋? ええと、ああ、近くに大型書店があるのでそこでいいですか?」
 なんでいきなり本屋とは思ったが、断る理由もない。志津子も「そこでいいです」と言ったので、行く先が決定した。


 書店に入ると、志津子はスルスルと人の間をすり抜けて文芸書コーナーに向かった。正人も本は好きなので、大人しくその後を付いていってついでに新刊チェックをした。
(この本って文庫化したんだ。あー、書き下ろし入っているし。買おっかなぁ)
 単行本なら持っている小説の文庫版を手に取り、どうしようかと迷っていると志津子が寄ってきた。正人の手元を見て、「好き、なんですか?」と問いかけてくる。
「うん――じゃなくて、はい。単行本は持ってるんですけど、書下ろしも追加されているし、けっこう手直しが入ってそうなんでどうしようかなって思ってるんです」
 でも今月はけっこう本を買ってしまったのでさすがに自重しないといけませんねーと言ったら、志津子が「……おもしろいですか?」とさらに質問を重ねてきた。ついさっきまで全くコミュニケーションが取れなかったのに、一体何がどうなっているんだと戸惑いながらも、好きな本に関心を持ってくれたのがうれしくて笑顔を浮かべた。
「SFものなんですけど、伏線とかの回収が秀逸でアッと言わされました。この作者は全体的にストーリーや会話のテンポがいいし、好きなんですよね」
 何故だかいきなり目を逸らされた。変なことを言っただろうか。……たぶん言っていない。よく分からない志津子の反応に少し傷ついたが、気を取り直して話を続けた。
「志津子さんは何かお目当ての本があって来たんですか?」
 迷わず文芸書コーナーにやってきたのだから、何か目当てがあるのだろうと思っての質問だったが、志津子は俯いて「あの、その」と口ごもる。数秒くらいそうやって躊躇っていたが、意を決したのか顔を上げて正人を見つめた。ほんのり頬が赤いことに気がついたが、必死なようなのでからかわずに黙って聞いた。
「オススメの、本があれば、教えて……ほしい、と、思って」
 そこまで言うと目に見えて顔が真っ赤になって、歯切れの悪かった口調が突然早口になった。
「た、たんに何か本を読みたいと思ったんですが最近特定の作家さんのしか読まなくなってしまって新規開拓していないなーと思ってそれで読書が好きだとお聞きしたのでじゃあ何かオススメを教えてもらおうかなあと思ってそれでそのあの」
(確かに読書が趣味だとは言ったけども)
 本当のことだが、趣味は読書なんて定番中の回答は建前だとスルーされるだろうと思っていたので驚いた。実際、志津子も趣味は読書だと言っていたが、スルーしていた。本屋に寄りたいと言った時ですらそのことを忘れていたくらいだ。
「――ごめんなさい」
 突然しゅんとなって俯いた志津子はかわいかった。そういえば一つ年下なんだよなぁと今更ながら思い出し、もしかしたらこいつは不機嫌だったんじゃなくてものすっごく緊張してガチガチでどうしていいか分からなかっただけだったんじゃないかと都合の良い妄想までしてしまった。
「いや、なんかうれしいですよ。俺の趣味でよければオススメを何冊か教えますけど」
 ひとまず、好みを知ろうとよく読む本を聞いたが、志津子があげたものの半分くらいは正人の好きな本だった。
「趣味が合いますね。だったらオススメもしやすいですよ。ええっと――、ああ、さっき言っていた作者の本はどうですか。なんなら本を貸しますよ」
「えっ?」
 志津子が小さく声を上げ目を見張ったので、自分の失言に気づいた。自分の好きな本を好きだといってくれたことがうれしくて、今がお見合いの最中であることを忘れ調子に乗ってしまった。
「――すみません。聞き流してください」
 本を貸すということは、また会いましょうということだ。見合いなのだから、暗に「お付き合いしませんか」ということになってしまう。顔を赤くして戸惑っている志津子と向き合っているのが気まずくて、まだ手に持っていた例の本を示し、「やっぱりこれ買ってきます。ここで待っていて下さい」と早口に告げて足早にレジに向かう背中に「え、ちょ、まっ」と声がかけられたが、聞こえないフリをしようとした。――が、予想外の言葉を投げつけられ足を止めた。
「瀬尾先輩!」
 振り向くと口元を押さえて固まる志津子の姿があった。さっきのは、"とっさに出てしまった言葉"のようだ。別に"瀬尾先輩"という呼びかけ自体は間違っていない。正人の苗字は確かに"瀬尾"だ。しかし、"先輩"と続くのは明らかにおかしい。
「……えっと、もしかしてどこかで会ったことあります?」
 大学は世話人の話で出ていたから聞いたが、違う大学だった。小学校と中学校も住んでいる地域的に違うはず。だったら高校だろうか。
「K校だったり、する?」
 志津子は固まったままだ。肯定もしなければ否定もしない。
「それとも、俺の後輩とかの友達?」
 正人の話を友達の口から聞いたことがあって知っていたなら、その時は"瀬尾先輩"と話に出てくるはずだろうから、そういった可能性もある。しかしそれにも志津子は反応しない。しないというか、聞こえてすらいないかもしれない。
「あの、志津子さん?」
 顔の前でひらひらと手を振ると、やっと志津子が反応した。
「ううう」
 そして唸り、顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
(って、ここ書店の中だから! 周りに人いるから!)
 周囲の視線が痛い。痴話ゲンカをして、女の子を泣かせたとか思われていそうだ。
「ひ、ひとまずここ出ない? 喫茶店とかに入ろう?」
 この場から逃げ出したいのと、場所を移動することで志津子を落ち着かせようとしてそう提案したが、いきなり志津子は立ち上がって正人がまだ持っていた例の文庫本を奪い取りレジに走った。呆気にとられ、会計を済ませた志津子がそばに戻ってくるまで動けもしなかった。
 すると志津子は、「お詫びです」本の入った袋を正人へと突き出してきた。どれに対するお詫びなのかは分からなかったが勢いで受け取る。その時見た真っ赤な顔で仏頂面をする志津子は、かわいかった。

 ***

 喫茶店に落ち着くと、志津子は「同じ高校だったんです」と切り出した。
「学年も違うし、部活や委員会も違ったので接点はないし、先輩が覚えていないのも無理ありません」
 でも志津子は正人を知っていた。それはつまり、どこかで顔と名前を覚える程度には接点はあったのではないのだろうか。それを聞くと、ボソボソと「私は図書委員だったので……」と話してくれた。
(そういや俺、図書室よく利用してたよな)
 休み時間は友達とバカ騒ぎして遊んでいたが、放課後は図書室によって本を見繕っていた。友達には似合わねーと笑われたが、SFやアクションやミステリーものをクラスの男共に薦めて、最終的にはけっこうな人数の友達が放課後図書室を利用するようになった。普段読書をしない奴らが正人の勧めたものを読んでくれていたのは、みんなのノリが良かったおかげだろう。
「先輩、図書委員の中じゃけっこう有名だったんですよ。男子はたいがい漫画とかを読みにくるだけだったのに、先輩が友達に薦めて利用率が増えてSFやミステリーものの購入が増えましたし」
 正人達の高校の図書室は手塚治などの名作ものや歴史漫画などが揃っていたので漫画コーナーにおける男子率は高かったが、文芸書に関しては本当にごく一部の利用者しかいなかったらしい。けれど正人にとっては、アガサ・クリスティや江戸川乱歩と古典ミステリーが充実していたことと、SF御三家の作品が完備されていたことの方がうれしかった。うれしさのあまり友達に薦めまくっていたのだった。
「……もともとミステリーものとかって充実してなかったっけ」
「してましたけど、基本的には古典作品ばかりでした。でも先輩たちが次々読むから、昭和以降の現代ものも購入するようになったんです」
 確かに高校二年辺りから現代ミステリーも充実し始めた。もっとも、そういったものは自分で購入していたのであまり借りたことはなかったが、正人経由でミステリーにはまった友人達は喜んでいた記憶がある。
「それが図書委員の先輩方は悔しかったみたいで、恋愛小説とかファンタジー小説を充実させようとがんばって企画を立てていたんですよね」
 そういえば、恋愛小説の類も途中から充実し始めた気がする。正人はあまり読まないので気に留めていなかったが、恋愛ものやファンタジーものを集めてフェアを実施していたり、「図書委員のオススメ」としてポップがついていたりした。正人も何度かミステリーもののフェアを組む時にポップの依頼をされて書いたことがある。
「おかげでうちの高校は、蔵書も生徒のリクエストに沿ったものが多いし、今でも図書室の利用率が高いんです。先輩は気にしてないと思いますが、歴史を変えた男として図書委員や先生方の間で語り継がれているんですよ」
(語り継がれてるって何!)
 自分の好きなものを友達に薦めただけで、あとは本そのものがおもしろかったからみんなも継続して読んでいたのだ。すごいのは本や、その本を購入してくれた司書教諭とかの人のおかげであって正人の手柄ではない。それでも、評価されるのは悪い気はしなかった。
「――だから」
 ふと、饒舌だった志津子が声を落とした。
「先輩がお見合いの相手だって知って、びっくりして緊張したんです」
 仏頂面でコーヒーカップのふちを指でいじりながら、視線を逸らしてポソリと吐き出された言葉に危うく突っ伏しそうになった。
(ちょっと待て! いま妙にかわいかった! 超かわいかった!)
 やはり、不機嫌で仏頂面していたのではなくて、緊張して結果的に仏頂面になってしまっていたのだろう。さっきの自分にとって都合のいい妄想が正しかったということだ。
(いやいや待て待て。やっぱり少しは怒ってるだろ)
 相手は正人のことを知っていたのに、正人は全く知らなかった。少なくとも図書室で顔を合わせ、貸し出しの時とかに声を交わしていたのだろうに、これっぽちも気づかずに初対面だと信じ込んだ対応をされたらいい気分はしない。
「あーっと、その、ごめん。全然気がつかなくて」
 謝ると、不思議そうな顔で覗き込まれた。
「気がつくも何も、同学年ならともかく年下の図書委員の顔なんて覚えていませんよ。もう七年も経っているんですし、当たり前です。私が先輩を覚えていたのは、有名だったので印象に残っていたからですよ」
「……でも、ちょっとは傷ついただろ? だからごめん」
 改めて謝ると、志津子はぱっと頬を染めて正人から視線をはずして「別に……」と硬い声で言い、ごまかすようにコーヒーを飲む。そんな志津子の様子に、ピンとくるものがあった。
(そういや、こいつは見合い相手が俺だって認識した上で受けたんだよな)
 つまりは、多少は正人自身に興味があったと自惚れてもいいのかもしれない。最終的には断れなかっただけだとしても、今日の緊張具合は"知ってる人だから気まずい"とは別の雰囲気も漂っている。そこまで考えたら、むくむくと意地悪な気持ちが湧き出て鎌をかけてみた。
「もしかしてさ、志津子さんが好きだって言った本を読み始めたきっかけって、俺?」
「そんなんじゃありません!」
 即座に否定されたが、顔を真っ赤にして言い返されても迫力がない。正人は思わずにやにやとした表情を浮かべてしまったが、それを見て志津子はますます顔を赤くして言い募る。
「貸し出しが多くて人気だったから読み始めたんです! 先輩が借りてった本に予約を入れていたわけじゃありません!」
「予約まで入れてたんだ」
「違います! 先輩が借りてたからじゃありません! 貸し出し手続きをしてた時におもしろそうだと思ったから予約を入れたんです!」
「直後に予約を入れてたんだ」
「――っ!」
 墓穴を掘り続けた志津子は、言葉が出ないのか口をパクパクとさせて停止した。しばらくすると、ムッとしたように唇を尖らせ俯いてしまった。
「そういえば、オススメの本を教えてくれって言ってましたよね」
 後輩だと知って砕けていた口調を改め、志津子がくれた本の入った袋をテーブルの上に置く。するとピクリと肩を揺らした。その様子を見ながら、提案をする。
「今度もし会うことがあったら、この本を貸しますよ。その時、志津子さんのオススメも貸してくれるとうれしいです」
 そろそろと顔を上げた志津子の目は、不安と期待に揺れていた。
「また会えたらいいですね」
 にっこり笑うと、志津子は急に唇を引き結んでふてくされたような仏頂面で「そうですね」と言った。ほんの短い時間一緒に居ただけだが、これが不機嫌ではなく緊張して照れていることは分かるようになった。そしてそれが、たまらなくかわいいと思っている自分にも気がついていた。

 ***

 正人は帰宅した直後に世話人の叔母に連絡をいれた。しばらくすると志津子からも連絡が来たらしく、その日のうちに正人と志津子は「お付き合い」することが決まった。
 叔母から聞いた志津子の携帯にすぐさま連絡を入れ、次の休みに"お互いオススメの本を持って"デートする約束を取り付けたのだった。

 ***

「最近お前、ジャンル広がったよな」
 昼食後に文庫本を読んでいたら、同僚の坂木が本を取り上げてパラパラと中身に目を通した。
「借りたんだよ」
「だろうなぁ。お前、前はファンタジーものって読まなかったもんな」
 確かに今日読んでいたのはファンタジーだ。海外の児童文学と言い換えてもいいかもしれない。恋愛ものとファンタジーものは滅多に読まない正人が、ここ最近はよく読んでいたことがおかしいのか、「なんでいきなり?」と突っ込んできた。
「だから、借りたんだよ」
「誰に」
「誰だっていいだろうっ」
 本を奪い返して鞄の中に戻すと、坂木は「ふーん」と人の悪い笑みを浮かべた。
「そういやお見合いした相手と付き合ってんだってな」
「それがどうした」
「いや、別に? そろそろ昼休み終わるぞ」
 言うだけ言って去っていく坂木の背中をひと睨みしてから、仕事が始まる前にトイレに行こうと席を立った。

 ***

 志津子とお付き合いを始めてから最初のデートの日、約束通りお互いにオススメの本を交換した。正人は例のSF小説を貸し、志津子は海外ファンタジー小説を貸してくれた。
「高校時代、先輩はファンタジーものって読んでなかったみたいだから、その中でオススメを持ってきました」
 そんなことに気がつき、かつ未だに覚えている志津子に苦笑を返すと、ぷいっと視線を外されてさらに笑いがこみ上げてきた。
 それから、デートの時はお互いに本を交換する習慣がついた。市役所に勤める正人と郵便局に勤める志津子は、基本的には土日が休みなので会う時間を調整するのは容易で、土曜か日曜――暇な時はどちらも――会えた。平日もニ、三日に一度は連絡を取り合い、お付き合いは順調だった。ニヶ月経った今では一人暮らしをしている正人のアパートに志津子が昼頃から来ることが定着し、一緒に料理をしたり本を読んだり映画を見たり喋ったりとダラダラした時間を過ごしていた。志津子は相変わらず照れたり緊張すると仏頂面になり口数が減るが、正人にとってはそれはそれでかわいいので、ついからかってしまうこともしばしばだった。
「なあ、お菓子でもつくらない?」
 その日も正人の部屋に来てコーヒーを飲んでいた志津子は、怪訝そうに「いきなりどうしたんですか」と聞いてきた。
「やーなんかさ、一人暮らししてたら料理くらいはするけど、お菓子作りってしたことないってかする機会もないし、せっかくだから志津子さんがいる時に一緒にしたいなーと思ってたんだよ」
 この前、志津子が持参してきた手作りマドレーヌを食べてから興味が出た。ネットで簡単にお菓子作りについて調べてみたが、男一人でお菓子作りも寂しいので、志津子にレクチャーしてもらいながら作れば楽しいかなと考えていたのだ。
「別にいいですけど……なに作りたいんですか? ものによっては道具も買い足さないといけませんけど」
「ケーキ系がいいな。あー、スフレチーズケーキとか?」
「ケーキなら型とかいりますけど、どうします? 明日でよければ私の家にあるやつ持ってきますが」
 今日は土曜なので、明日でも問題はない。一度しか使わなさそうな道具を買い足すのももったいないからと志津子は提案したのだろうが、正人はあっさりと「自分で買う」と言った。
「これからも、たまには一緒にお菓子作りでもすりゃいいだろ」
 志津子は突然、ぷいっと視線を外して斜め下を見た。口をへの字にしているが、ほんのり赤くなった頬から照れていることは分かったが、今のセリフのどこで照れたのかが正人には分からなかった。
(『たまには一緒にお菓子作りでも』って言ったんだよな。……あ、ああ!)
 不審に思いながら自分の言ったことを反芻して思い当たった。確かにこれは照れても仕方ないかもしれない。さっきの言葉は、「これからも一緒にいよう」というほど気障でもないけど、二人の関係が続くことを前提としたものだ。正人自身は意識していったわけでもなかったが、むしろ意識せずにするりと出てきたことに驚く。いくら同じ高校だったとしても、正人にとってはこの前のお見合いの席が初対面だと言っても過言ではないくらいに、志津子のことを知らなかった。志津子は覚えていたが、七年も経っているので正人のことを知らないも同然だ。なのに、たった二ヶ月で一緒にいることに違和感がなくなっている。むしろ居心地がいいのだ。
(でも、どうなんだろうなぁ)
 お見合いから始まった二人は、当然のように両親公認で"結婚を前提としたお付き合い"をしている。しかし、だからといって恋人といった感じでもない。正直なところ、二人はまだ手すらも握ったことのない清い関係だ。志津子が好意を持っていることは知っていても、それはあくまで高校時代の憧れや懐かしさの延長だ。正人に至っては、単純にかわいいなと思っている程度でしかない。このまま付き合っていれば育まれていくものがあるとは思っても、お見合いをしている以上は半年くらいで結論を出したほうがいい。
(もっと一緒にいたいとは思うんだけどな)
 正人も男なので志津子が部屋に一緒にいれば欲も出る。しかしその程度の気持ちで手を出すほど飢えてもいないし、今はただこの居心地の良い時間を大切にしたかった。
「今日作るんなら材料買いに行きましょう。どっちにしろ晩御飯の時間に食い込みそうですし、食後のデザートになりますが」
 いつの間にか復活した志津子は立ち上がり、外の出る準備を始めた。その様子を見ながら、志津子が自分のことをどう思っているのだろうかと初めて気にした。


「……なんとなく分かってはいましたけど、先輩って大雑把ですよね」
 食後の紅茶を飲んでいたら、志津子が呆れた声で言った。
「部屋の片付けとか料理の仕方を見て薄々は感じていましたけど、さすがにお菓子作りで勘とか目分量とかの言葉が当てはまらないような豪快な適当っぷりには驚きました」
 結論を言うならスフレチーズケーキはおいしかった。ただし正人はほとんど何もしていない。最初のうちは志津子の指示を聞きながらボールに材料を入れていたが、その様子を見た志津子が「量ってください! きっちり量ってください!」と真っ青になってボールを奪い取った。その後もしばらくは手伝ったが、途中で晩ご飯のパスタでも作ってくださいと言われてしまったのだった。正人が適当にぶち込んだ材料は、もったいないと言う理由でそのまま使用されたが、それがふっくら膨らんだおいしいスフレチーズケーキになったのは、志津子の努力の結果だ。
「だって料理する時は適当でもおいしくできるし……」
 拗ねた声で抗議した正人だったが、「料理とお菓子は違うんです!」という志津子の力強い言葉に押し黙る。正人はこれでも料理は得意だ。今日の晩ご飯のパスタに絡めているソースも手作りだったりする。
「お菓子作りに興味があるんなら、今度はクッキーです。初心者コースで行きましょう。多少分量を適当にしてもそれなりのものになります」
「……わかった。明日はクッキー作りか」
「明日作るんですか?」
 やる気のある正人の発言に驚いたらしい。
「いやか?」
「違います! というか、先輩ホントどうしてそんなにお菓子作りに興味出てるんですか」
「そうか。明日もお菓子作りに付き合ってくれるのか。ありがとう」
 質問はスルーして、なんの疑問もなさそうに明日も付き合ってくれるつもりらしい志津子に笑顔でお礼を言うと、ぱっと目を逸らし口元を手で覆いながら眉間にしわを寄せた。それを見てにやにやした笑みを浮かべた正人を無視するように、志津子は残っていた紅茶を一気飲みした。

 ***

 昼休みに昨日作ったクッキーを食べていたら、隣で菓子パンを食べていた坂木が物欲しそうに見てきた。
「坂木も食うか?」
 視線が痛くてまだ残っているクッキーをすすめると、一瞬うれしそうなにしたと思ったら微妙に顔をしかめた。
「でもそれって彼女の手作りだろ? さすがにそんなものもらうのは悪いなあ」
 意外と律儀な性格だったらしい。
「問題ない。その彼女のレクチャーのもと、作ったのは俺だし」
「……むしろ嫌かもしれない」
「俺が作ったものが食えないってのか!」
「いや、だってさーお前の手垢がベタベタついたクッキーってなんかさ」
「手垢言うな!」
「素手で作ってんだろ? こねたり伸ばしたり型抜いたり、素手でやったんだろ?」
 心底嫌そうな顔で言葉を重ねられた。
「普通はそうだろう!」
「そうだけど、お前だとリアルで嫌だなあって……」
「喧嘩売ってんのか!」
 怒鳴っているうちに、坂木はいつの間にかクッキーを食べていた。しかも焦げていないおいしそうなものを選んで。文句を言おうとしたが、「おいしいぞー」とバクバク食べる坂木に気力も萎えてしまった。
 昨日志津子と一緒に作ったクッキーは、三分の一は失敗して残りはまあまあの出来だった。反省を踏まえ分量はきっちり量って作ったが、焼く時に油断をした。特にココアパウダーを入れたものは焼けているか判断がつかず、うっかり焦がして食べれたものではなく、泣く泣く捨てた。オーブンが小さめだったので枚数の割には何度も焼いたおかげで、三回目くらいからは加減も分かり失敗はなかったのが救いだ。
「でも、お前ら見合いなのに仲良いよな。結婚するのか?」
「……いきなりなんだよ」
「見合いなんだから結婚前提だろ。どうなってんだそこんとこ」
 からかっているのか素の質問なのかは定かではないが、坂木はいちいちめざといことを言ってくる。結婚云々のことは、正人にとっても「どうなってんだそこんとこ」と聞きたい質問だ。
「知らん」
 一蹴すると坂木は無言でため息をつく。それがどういう意味かは知らないが、失礼なヤツだ。
「一度さ、相手とそういう話をした方がいいよ。絶対」
 大きなお世話だと思ったが、もっともな提案なので「それもそうだな」と言うだけに留めた。それを聞いて再び坂木がため息をついたが、正人は無視して午後の仕事に向かった。

 ***

 その日、志津子は珍しい格好をしていた。デニムのミニスカートに黒のキャミソール、そしてカジュアルな水色のジャケットを羽織っている。週末は正人のアパートでダラダラ過ごすことが定番になってからは、基本的にパンツスタイルばかりだったためスカートということにまず驚いた。もちろん以前はスカートもよく着ていたが、ふんわりと柔らかい素材のものが多く丈も長めのものばかりだった。パンツスタイルの時も含め、基本的には大人しそうな印象を与える服装をしていた志津子が、こういった服も着るのかと少々驚いた。
「どうかしましたか?」
 普段正人の前ではしない服装であるという自覚はないのか、志津子は首を傾げてから「行きましょうよ」と促した。
「今日は付き合ってもらってありがとうございます。先輩とゆっくりショッピングしたことってなかったから、楽しみです」
 このデートは志津子から誘ってくれたものだった。確かに二人でデートをするようになってから、ショッピング目的で出かけたことはない。映画を見たり、食事をしたり、美術館に行ったり、そういったことが中心だった。スーパーへの買出しにはよく行くが、あくまで食料品が目的なのでショッピングといった感じは全くない。だからたまにはと志津子は誘ってきたのだろう。
「どこか見たいとこあるのか?」
「百貨店をぶらぶらしましょう。最近あまり行ってないんで、服とか小物を見たいです」
 百貨店なら良い店が入っているし、途中で休憩もしやすいので異論はなかった。


 それから、どちらかといえば志津子の買い物に付き合う形でショッピングを楽しんだ。志津子は自分の服を二着と、最近壊れたと言っていた腕時計を購入していた。服を体にあてて「似合いますか?」と聞かれた時は妙に反応に困ったりしたが、あまり正人の言動をあてにはしていなかったらしく、自分で「よしっ」と言いながらチェックを入れていた。他にもお菓子作りの本や道具を見て今度試してみるものを相談したりと、あっという間に午前は過ぎた。
 レストラン街でオムライスを食べた後も歩き回り、雑貨屋で楽しそうに「これかわいいです!」と言いながらいろいろなものを手に取る志津子に、服装以外でも新しい一面を垣間見て正人も気分が良かった。
 そして、そろそろ疲れたからデザートでも食べがてら休憩しようかということになって、何を食べようかという話になった時、たまたま視界にトイレの表示が目に入ったので、断ってから用を足しに行った。
 想定外のことに動揺したのは、このすぐ後だった。


 トイレから戻ってきて正人が見たのは、志津子が二人の若い男に言い寄られている姿だった。馴れ馴れしそうに掴まれた腕を振り払おうと、心底嫌そうに、けれどどこか怯えた声で「離してくださいっ」と言っていた。
 それを聞いた瞬間、正人の頭は真っ白になった。気がついたら男の腕を引き剥がし、志津子を背中に隠して「何か用でも?」と一瞥し、相手が怯んでいる隙に志津子の手を握ってその場から離れた。
 ずんずんと滅茶苦茶に突き進んでいると、途中で志津子がコケかけて我に返った。今更握っていた自分より小さな手を意識して離す。気を使う余裕もなくいつもより早足だったためか、志津子は息を切らして近くのベンチに座ってしまった。
「あ……ごめん」
 お互い気まずくて、そのまま沈黙してしまう。ひとまず正人は志津子の隣に腰を下ろして、自分の中に湧き出たモノを落ち着かせようとした。
(……もしかしなくても嫉妬、だな)
 触るな。志津子の腕を掴んだ男を見た瞬間そう思った。そして志津子を怯えさせる男達にカッと怒りがこみ上げた。一秒でも早くその場から立ち去りたくて、歩幅の違うのも忘れて早歩きまでした自分に動揺する。
(やっぱり、そういうことなんだよなぁ)
 たぶん、自分で思うよりも好きになっている。愛しいと、思ってる。たった二ヶ月しか経っていなくても週末は必ず会っていたし、惹かれる理由は探せばたくさんあった。というよりも、理由が必要ないくらい二人の時間は居心地が良くて"もっと一緒にいたい"と自然に感じた。そう感じること自体がすでに想っている証拠で、今までいちいち難癖をつけて自分の気持ちを認めなかっただけだ。
「あの、……先輩」
 呼びかけに視線を向けると、潤んだ目で上目遣いに覗き込んできた。正直、自分の気持ちを自覚したばかりにその顔は反則だ。思わず視線を外してしまった。しかし、志津子が言葉を続けないので視線を戻すと、いつの間にか俯いてしまっている。さらにはぽたぽた落ちる涙が見えた。
「ど、どうした!」
 慌てて肩を掴む。涙を拭った志津子は「なんでもありません」と顔を上げるが、なんでもないわけがない。
「さっきの奴らになんかされた?」
 はっきりと首を横に振る。
「じゃあ、どうして泣てんだ」
 志津子は何も言わずに顔を背ける。
「――志津子」
 こっちを向かせたくて名前を呼んだ。すると、いつもと違う呼び捨てに驚いたのか、きょとんとした顔で正人に視線を合わせる。
「どうしたんだ?」
 もう一度ゆっくりと聞く。瞬間、頬を染めた志津子が視線を彷徨わせて表情を固くする。しばらくは何も言わなかったが、沈黙に耐え切れなくなったのか「先輩がっ!」と唐突に声を荒げた。
「俺が?」
 なるべく優しい声になるように促すと、聞き取れるかどうかギリギリの声で言う。
「目を逸らすから……」
 拗ねた口調で吐き出された言葉に、正人は虚をつかれた。「ナンパなんてされて、怒ってるのかなって……」とさらに言葉を重ねられて、思わず「違う!」と叫んでしまった。
「あいつらにはイラっときたけど、なんで志津子のことを怒るんだよ!」
「だったらなんで目を逸らしたんですか。私が話しかけた時に、先輩が目を逸らしたことなかったのにっ」
 負けじと言い返され、驚く。言われてみれば、確かに志津子が話しかけたときに目を逸らしたことはなかった気がする。逆は何度もあったが。
「だから、嫌われたのかなって……」
 また志津子の目に涙が滲む。
(どうしてそっちの結論になるんだ!)
 思わず天を仰いだ。言いたくはないが、正直に目を逸らした理由を言わないとこの場が収まりそうにない。ものすごく恥ずかしくて躊躇して、
「かわいくてうっかり押し倒しそうになったからだっ!」
 と、最終的には身も蓋もないことを叫んでしまった。真っ赤な顔で硬直した志津子を見て、さすがに後悔する。慌てて掴みっぱなしだった肩を離し、立ち上がった。
「や、ごめん、その、えーと」
 言葉が見つからなくて逃げ腰になる。すると突然志津子も立ち上がり、正面から抱きついてきた。
「私、先輩が好きです!」
 今度は正人が真っ赤な顔で硬直した。
「高校の時に先輩が好きでした。だから、お見合い写真を見て懐かしくてすぐに受けたんです。でも緊張して最悪な態度しか取れなくて泣きそうでどうしようかと思ったのに、なんかお付き合いできて信じられなくてうれしくて」
 一度そこで言葉を切ると、顔を上げて正人をしっかりと見た。
「そしてまた好きになりました。懐かしさとか憧れとか以上に、今の先輩が好きになりました。一緒にいるのが居心地良くて幸せでもっとずっと一緒にいたくて。けど先輩がどう思ってるか分からないから不安で。だから、だから、」
「俺も好きだよ」
 言葉に詰まった志津子に苦笑いを返し、言葉を封じるように告白して抱きしめた。
「ずっと一緒にいたいと思うし、志津子のことをもっと知りたい」
 ふと、志津子の顔が柔らかくほころんだ。抱きついていた腕にさらに力を込めて、「私も先輩とずっと一緒にいたいし、知りたいです」と言ってくれた。
「じゃあさ、そろそろ"先輩"って言うのやめない? 俺もさん付けやめるからさ」
 からかうような口調で言ったが、実は前々から気になっていたことだ。なし崩しに"先輩"が定着していたが、せっかくなので名前で呼んでほしい。
「……やめないとだめですか?」
「じゃないとプロポーズしないよ」
 爆弾を落とすと、ぽかんと見上げてくる。
「プロポーズさせてくださいよ志津子さん」
 にっこり笑うと、志津子は唇を引き結んで眉間にしわを寄せる。しばらく躊躇っていたが、やがて小さな声で「……正人、さん」とささやいた。緩んだ顔のまま正人はそっと志津子に顔を寄せる。

「結婚しよう。志津子」

 そして、仏頂面の志津子にキスをした。


 私が書くと悲恋とか暗い話が多いので、意識して明るめの恋愛話。お見合いに関する知識はほぼ皆無です。最初は勘違いしたまま書いていて、あとで調べて修正しまくりました。というか、三人称で書くリハビリをしてみました。思いっきり一人称よりの三人称ですが、今はコレが限界です。

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