泡になって、気づいた

掲載日:2008-03-22

 僕は暗い海を見つめて許しを請う。
 ――どうか、どうかあの人にもう一度会わせて下さい。もう一度チャンスを下さい。
 愚かだろうか。傲慢だろうか。君が消えたのは僕のせいだというのに。
 君はあんなにも叫んでいた。音にならない叫びは、あんなにも瞳から溢れだしていた。
 でも、僕は気がつかなかったから。

 君は無邪気なくらいに僕を慕ってくれたから、君が僕のそばからいなくなるなんて思いもしなかった。
 僕を助けてくれた命の恩人との婚約。断れるはずがなかった。なにより、僕の命を助けた彼女を愛しいと思っていた。君と一緒になりたいと思った時もあったけど、僕は王子だ。いずれこの国の王となる。だから、命の恩人でもあり隣国の王女である彼女との婚姻は、政治的にも国民の感情的にも理想とされた。美しく誇り高い王女。彼女はこの国の民に愛されるだろう。
 それに比べて君は、言葉もしゃべれない。礼儀も身を飾ることも知らない。王宮では君の事を眉をひそめて見ている人が多い。無邪気な顔で王子をたぶらかすふしだらな女だ、と。
 それでも僕は知っている。君が必死にも字を覚え、コミュニケーションをとろうとしていたことを。掃除や、料理を手伝っていたことも。軽やかで儚げなダンスを踊る君。けれど足が悪いのか、時々君は足を引きずっている。それでもなにか仕事を見つけては手伝う君。――愛しいと思った。
 無邪気な君は、日々遠くなった。僕と王女の婚約が決まったとき、悲しげに笑った。そして君は僕を避ける。他の人の仕事を手伝って、暇ができたら海辺を歩く君。僕と出会えば会釈だけ返して急いで逃げる君。僕は君を捨てて王女と婚約したんだ。避けられて当然だ。だけど、どうしようもなく苛立った。

 王女と結婚した初夜、僕は波音が耳について、寝つけぬまま布団の中で目を閉じていた。
 コトリ、と音がした。侵入者だろうか? 誰かが悪意を持って部屋に入ってきたのか? 僕は眠った振りをして様子を伺った。侵入者は僕のベットの横に立った。しばらくじっと僕らを見下ろす気配がある。どうするべきだろうか。
 そんなことを考えながらも動こうとはしなかった僕は、きっとその気配の主に気がついていたのだろう。 「……」
 声にならない吐息が漏れた。そしてその人物は僕の頬に触れ、僕の唇にキスを落とす。
 まぶたに落ちた温かいものは、――涙?
 侵入者が僕からは慣れた気配に、僕はそっと目を開ける。
「君は……」
 そこにいたのは君だったね。
 君は僕と目が合うと、蒼白な顔をして後ず去った。その手に握られるのは短剣。
「それで僕を殺すの?」
 尋ねると、君は弱々しく首を横に降った。唇が何かの言葉を紡いだけど、音にはならない。君の蒼い瞳からはとめどなく涙が溢れる。

 ――「早く!」

 外から女の声が響いた。
「早くその王子を殺しなさい!」
「そうすればあなたは助かる!」
「一緒に帰りましょう?」
 次々と数人の女の叫びが響く。君はテラスに出る窓を開き、下を見下ろした。僕も後に続く。そこにいたのは五人の人魚。美しい髪に、白い肌。そして、腰から下の輝くうろこ。
 ――人魚?
 僕に気がつくと、人魚たちは燃えるような憎悪の目を向けてきた。それに気がつくと、君が僕を背後に庇って首を横にふる。
「どうして庇うの」
「王子はあなたを殺すのに!」
 殺す? 僕が君を?
「早く早く早く早く!」
 急き立てる声。いやいやするように、君は耳を塞いで短剣を抱き締める。
「ああ、もう時間がない!」
 絶望的な叫びを人魚の一人が上げた。瞬間、君の体は傾いだ。足に力が入らないのか、その場にうずくまる。けれど君はそのまま這うように手すりに向かった。そして、その身を投げ出す。
 海に落下する君の体は、徐々にその形を崩していった。足先から、徐々に泡になっていく。僕はただ呆然と君を見つめた。君も僕をじっと見つめる。無理やりな笑みを浮かべて、君は僕を見つめる。海に吸い込まれる、その時まで。
 君が海に落ちても、波はしぶきを上げたりしなかった。ただ、無数の泡をその場に残した。
「なんて哀れな子」
「人間を愛した哀れな子」
「全てを捨てて愛した子」
「全てを捨てても愛されなかった子」
「泡になった哀れな子」
 人魚たちは次々と嘆き、泡を抱き締める。
「どうして妹を愛してくれなかったの?」
 人魚が僕を見上げた。
「あなたがあの子に愛を誓えば、あの子は人間になれたのに」
「たとえ尾も声も故郷をも失っても、あなたと会うことを、人間になる事を選んだのに」
 それだけいって、人魚たちは海の中に帰っていく。僕一人残して。
 僕はただその場に立ち竦んだ。訳がわからなかった。妹? 君は人魚の妹だったのか? つまり、君も人魚? けれど足があった。君にあった白い足。でも君は泡になった。
 僕が愛せば人間になれた? 君は消えた。僕が愛を誓わなかったから? じゃあ、どうしてあんなに必死に人魚たちは僕を殺すよう君に命じた? 僕を殺せば、君は消えずにすんだ?
 考えがまとまらない。訳がわからない。わかるのは、もう君はいないということ。

 ああ、君は僕を愛してた? 僕は君を愛してた?
 もう一度だけ君に会えたら、それが分かる気がするんだ。


 ずっと前に書いていたもので、人魚姫に対する私の願望。つまりは捏造。私は、悲恋は悲恋でも、その後もぐるぐる悩む悲恋が好きらしいです。

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