せめて今だけは

掲載日:2007-09-16

 降りる駅をまちがえた。そう気がついた時、もう列車はホームを離れていた。
 大きく息を吐いて気を取り直す。時刻表を見ればすぐに普通列車が来るらしい。それでもちゃんと間に合うし、良しとしよう。
(……間に合って、どうすればいい?)
 浮かんだ言葉が体を縛りつけた。目の前には列車が滑り込んできたのに、凍りついたように動けない。開いたドアから人が吐き出され吸い込まれていくのを、ただ黙って見ていた。
 列車が再び遠ざかる。その途端、私は走った。衝動のまま改札を抜ける。買ったばかりのスカートの裾をからげ、綺麗に整えた髪を乱し、細いヒールで私は走る。見知らぬ街を、逃げるように走る。足が痛い。喉がヒリヒリする。息が苦しい。気づけば視界が歪み頬が濡れていた。それでも立ち止まりたくなかった。
 脳裏を掠めるのは幸せそうにはにかんだ彼女の姿。隣に立つ彼に腕を絡ませ「結婚することになったの」と頬を染める。彼も笑う。遠い昔に私に向けてくれた以上の、深い愛情に満ちた眼差しを彼女に向ける。
 無邪気に「あなたも来てね」と言った彼女が恨めしかった。忘れたふりをして微笑む彼が憎らしかった。なのに、嬉しげに頷いた自分が虚しかった。
 今日のために買った服。予約した人気の美容院。手間をかけて彩った爪。見栄なのか意地なのか。何もかもが馬鹿らしい。
 溢れ出すのは彼と過ごした日々。私の名前を呼ぶ彼の声。幼い恋の記憶。彼との未来が永遠に続いていると思っていたあの頃の私。けれど、あっさり分かれた二人の道。

 ――突然手のひらと肩に衝撃。

 気がつけば私は道の真ん中で転がっていた。急いで周囲に目を向ける。人通りはなかった。ほっとして起き上がろうとしたけれど、足がガクガクして立ち上がれない。壁に背中を預けて座り込むしかなかった。
 荒い呼吸を繰り返すと、渇ききった喉が引きつったように痛む。転んだ拍子に脱げた靴を見てみれば、細いヒールが折れていた。ゆっくりとまぶたを下ろすと、膝や手のひらがじくじくと痛みだした。擦りむいてしまったのだろうか。
 どこかの学校のチャイムが耳に滑り込んできた。はっきりと響いたその音に、泣きたくなる。視線を左手首にずらせば、静かに時を刻む腕時計が一時を示していた。思ったよりも長い時間走っていたらしい。
 一時。結婚式の開始時間。もう間に合わない。
 入社してから知りあった大切な友達。だけど彼女の恋人は、私の高校時代の恋人。かつて愛し合った私と彼は、顔を合わせると同時に暗黙の了解を結んだ。そして私達は「はじめまして」と笑い合う。
 何も知らない彼女の笑顔。彼女が語る今の彼。見せつけられるたびに未練を自覚する。彼女のことを大好きなのに、彼の隣に立てる彼女に嫉妬した。
 白いウェディングドレス。見つめ合う二人。暖かな祝福。二人が新しい未来を紡ぐ第一歩。そんなものには耐えられない。私も彼が好きなのに。好きだから。
 乾いた笑いが零れた。そんな二人を見せつけられないことに安堵した。醜い足掻きだとわかっていても、逃れたことに体中が満足感で包まれる。

 たとえ後に残るのが虚しく苦いものだとしても、せめて今だけはこの安堵に身を任せたかった。


 今月は小説がアップできそうになかったので、発掘しました。
 読売新聞の『有栖川有栖さんとつくる不思議の物語』に投稿したものの書き直しです。07年5月で、お題は「降りる駅をまちがえた。そう気がついた時、もう列車はホームを離れていた。」の部分。落選しているのでアップしていいはず。
 改めて読み返すと、私はこういうのが好きなんだなーと再認識します。

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