色褪せても愛しくて

掲載日:2007-07-16

 桜なんて大嫌い。そう思ってた。

「桜って、恋みたいじゃない?」
 おととしの春、テレビで桜名所特集を見ていた姉さんがそんなことを言った。
「咲いたと思ったらあっさり散って、ほんのひと時の艶姿しか残せない、儚く美しいうつつの夢。――恋もそんな夢みたい」
 ほろ酔い気分の姉さんはカラカラ笑う。けれど私は笑えなかった。彼との関係は終わったかもしれないと自覚した私には、夢は覚めたのだと突きつけられた気分だった。
 桜が嫌いになった。だからお花見なんて行かないし、桜吹雪に見とれたりしない。鮮やかな青空に映える薄紅の艶姿の前で、足を止めたりなんかしない。そう思っていた。

 けれど、まぶたの裏に広がるのは、鮮やかな薄紅。彼の描いた――桜。

 ***

 視線がすっと吸いつけられた。絵はたくさんあるのに、目に飛び込んできたのはたった一枚の油絵。
 何度も薄塗りをして色を重ねた、青く透き通る空。その中で慎ましく、けれど艶やかに咲き誇る薄紅の花びら。
 大嫌いなはずなのに、視線は絡めとられ逸らすことができない。絵の前から立ち去ることができない。

 「――真由子?」

 耳に馴染んだ声が、私の名前を呼んだ。
 呪縛が解けて、視線はやっと引き剥がされる。そして振り返れば、懐かしい姿。三年ぶりに会うかつての恋人は、驚きを顔に貼り付けたまま私のそばにやって来た。
 茶色く染められた髪。コンタクトにしたのか、いつもかけていた眼鏡はしていない。高校の制服を着ていた頃とは違う雰囲気をまとう、彼。
「なんでここにいるの」
「……友達が出展してるから。そっちは」
「俺? 俺は出展してんだ」
 二週間かけて、近くの美術館で絵画コンクールに出展された作品が展示されている。友達が興味あったら見にくればとチケットをくれたから、ヒマな日曜日になんとなく足を向けた。だからまさか、そこで彼に再会するなんて思いもしなかった。
「どの絵なの」
「なんだ。熱心に見てるから、気づいてると思ってた」
 そう言うと、彼は照れ臭そうに今まで私が見ていた桜の絵に指を向けた。その絵の下には、確かに彼の名前が書かれたプレートが付けられている。
「――桜、好きなの?」
 再び視線が艶やかな薄紅に縫い付けられる。息苦しさが忍び寄って、私は思わず服を握りしめた。
「うん、好きだよ」
 柔らかな声。そんな彼の顔を見ることができなかった。

 ***

 彼とは小学校からの友達で、高校の時には付き合ってさえいた。本当に好きだったし、彼と過ごした時間は今でも胸に残っている。廊下に座り込んでダラダラしゃべっていた昼休みとか、修学旅行で二人で歩いた京都の風景。集会でたまたま目があって、思わず浮かべた笑顔。本当に些細なことの方が多いけど、あの時の満ち足りた想いは忘れられない。
 だけど、受験間近になるとお互い忙しくて話さなくなった。そして大学に入ってからは、自然消滅するかのように連絡が途絶えてしまった。別れ話のようなものもあったけれど、どこが終わりかは今でもわからない。
 正直、付き合って一年もしないうちから微妙なすれ違いには気がついていた。それでも好きだったし、彼も好きだと言ってくれた。だから徐々に開いていく二人の距離にもどかしく思いながらも、見ないふりをしてきた。でも別々の大学に進んで、お互い自分の世界を持ってしまえば、開いた距離を埋めることはできなくなった。無視しようとしても、開きすぎた距離は確実に私達を隔てる。
 連絡のない日々。私から連絡をすることもできない日々。二人の関係が終わるのは、当たり前だった。

 そんな彼との再会は、私の心を震わせる。こんな偶然は運命ではないかと思った。再び私達が連絡を取りあって会うようになったのも、当たり前のことだと感じていた。

 ――なのに。

 楽しげに彼は笑う。目には穏やかな慈しみをのせて、彼は笑う。そしてその横で、知らない女の子が甘い微笑を浮かべた。それはどこでも見るような恋人同士の姿。
 街の片隅でそんな二人を見て、私は自分の愚かさを悟った。運命だと思ったのは私だけ。彼にとっては恋人だった私は過去。
 急激に頭の芯が冷えた。そして思い返す。彼は私を好きな素振りなんてしなかったし、話すことも近状や昔の話題。甘い空気は微塵もなかった。今の私は、小学校から知っている友達でしかない。
 幸せそうな二人に背を向け、私は足早に家路を辿った。

 ***

 家に帰ってまずしたことは、携帯から彼のアドレスを消去すること。次に、息が詰まりそうな苦い空気を入れ替えようと窓を全開にした。
 ――そして目に飛び込む儚い薄紅。
 家の近くにある小さな公園を囲む木々が、部屋の窓からはよく見える。青葉を揺らす木々の中で、ひっそりと桜は佇んでいた。ちらちら散りゆく桜の花びら。そびえる木々から薄紅の色合いは目に見えて減っていた。周囲を茂る若々しい緑の輝きが、ひと時の優美を誇った桜を霞ませていく。
 人の心もあっさりと霞んでいくのだ。終わりもわからなかった恋は確実に色褪せて、彼は新たな薄紅の花を咲かせた。それだけのことだ。
 なのにどうして私の頬は濡れているのだろう。視界はにじみ、あらゆる色が霞んでいくのだろう。答えは簡単だ。簡単すぎて虚しくなる。私だけが、色褪せた想いを捨てられずにいるからだ。

 携帯が鳴ってメールが届いた。のろのろと開いて送信者を確認すると、アドレスだけが表示されている。思わず携帯を握る手が震えた。アドレス帳から消したばかりの、彼だ。もう暗記してしまっていたから、名前が表示されなくたってわかってしまう。
 一瞬のためらいの後、メールを削除した。そしてもう一度窓から桜を見下ろす。
 色褪せた桜はとても惨めだ。匂やかな晴れ着を剥ぎ取られ、顔を出すのは青緑の葉。周囲に茂る緑に溶け込み、再び優美を誇る日まで静かに佇む。
 桜が恋のようだと言うなら、恋は再び花開くのだ。鮮やかな青空に負けないその姿を現すのだ。それは、色褪せるからこそ新たな想いを育むことができる証。

 嫌いだった桜は、再び咲き誇る日を疑いもせずに、美しい薄紅を散らしていった。


 大学に提出した小説を、ネット用に書き直したものです。もとは原稿用紙五枚分なので、改行も文章も少なかったのですが、書き加えました。
 色褪せる桜ネタは熟す前だったので、物足りないです。なんだか書きたいイメージだけで書いていて、ちゃんと練れてない。悔しいので、また色褪せる桜ネタで再挑戦したいなあと思っています。

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