掲載日:2006-12-30 〜 2007-02-08
好きな人がいます。
その人の視線の先には、別の人がいると知っていても。
好きなんだと思った。
そう思った瞬間に後悔した。
だって、私は恵那ちゃんに恋する達也くんを好きだと思ったから。
***
きらきら光る水が好き。
プールの時間は潜って水の中から空を眺めるのが大好きだった。
今日も自由時間になると同時に潜って空を眺めていると思いっきり水面をはたかれた。
「なにするのよ」
水面に顔を出せばそこにいたのは恵那ちゃんだった。
恵那ちゃんは楽しげに笑うと「なかなか出てこないから心配したのよ」といけしゃあしゃあと言う。私が一分は息を止めれると知ってるのに。ましてや潜ってから15秒も経っていなかった気がする。
「なに言ってるの? あんた一分以上は潜ってたわよ」
そんなはずはない。息は苦しくなかったもの。
そう反論しても恵那ちゃんはその辺にいた子を捕まえて「この子だいぶ長い間潜ってたわよね」と問いかけて。同意を得ていた。
もしかしたら本当にそんなに潜ってたのかしら。ってことは息を止められる時間も長くなったってことかもしれない。ああ、でも時間感覚失ってたのは危なかったな。
私はぼんやり反省する。
「あんたって夏になるといつにも増してボケてるね」
失礼な。ちょっとぼんやりするくらいでボケているなんて言われたくない。恵那ちゃんだって、夏になると暑さにへばっているのに。
私は水をすくって恵那ちゃんの顔にかける。一瞬の硬直の後、恵那ちゃんも私に水をかけてきた。両手ですくったわけじゃなく、水面をえぐって思いっきり。
被害は周囲の子にも及び、水のかけ合いが広がった。
みんなが楽しそうに水を宙に投げる度、強い太陽の光に反射してきらきらと舞う。
さり気なく視線を滑らすと、二つ向こうのコースにいる男子の中に、こちらを見ている達也くんを見つけた。
達也くんの目は、まっすぐと恵那ちゃんを見ている。眩しそうに細められた目。恋する目
夏のひとコマはこんなに楽しくてきれいなのに、私は声を立てて笑う恵那ちゃんを見るたびに、胸がじんじんする。
恵那ちゃんを見つめる達也くんを見るたびに、胸がどきどきする。
――そんな自分を感じるたびに、虚しくなる。
***
恵那ちゃんも達也くんも、小学校の頃からの友達だ。
中学生で同じクラスになったから、今でもよく話す。
今までは恋とかそんなものは関係なかった。一緒に遊んで楽しければ、その人は友達だった。だけど中学生になってしばらくすると、妙に男子を男の子として意識したり、男子が女子を女の子として意識しはじめたりした。
それでも、私には関係がないことだった。カッコいいと思う子もいなかったし、恋がしたいとも思わなかった。
高校生のお姉ちゃんが、彼氏と修羅場を演じているところを偶然見てしまってから、恋への憧れは冷めてしまったのだ。今は新しい彼氏とラブラブなお姉ちゃんを、ちょっと恨んでる。
けれどある日、気がついてしまったんだ。達也くんが恵那ちゃんを見る目が、他の人を見る目と違うってことに。
恵那ちゃんとふざけ合って笑っている様子は今までと変わらないけど、恵那ちゃんを見る目が甘く切なくなった。たまに、頬を染めている。
最初は、可愛いなあと思ったんだ。恵那ちゃんが好きなんだな。確か恵那ちゃんは特に好きな人はいなかったはずだから、達也くんを応援しようとまで思ったんだ。
でも、夕日の中で切なげな横顔を見つけた時、何気なくその視線を辿った。瞬間、あたしの心臓がぎゅっと締め付けられた。徐々に体中が熱くなってきて、走ってもいないのに息が上がった。
校庭の隅っこで、吹奏楽の人達と一緒にサックスを抱えた恵那ちゃんがいる。先輩らしき男の人に指導されながら、顔を真っ赤にしてサックスに息を吹き込む。間の抜けた音色が生まれた。つたない指使いで紡ぐ音楽が、他の楽器の音に交じって届く。
そんな恵那ちゃんを美術室の窓から見つめる達也くんは、見知らぬ人だった。
どきどきしてる。
どうしてかはわからなかったけど、どきどきしているっていうことはわかった。
***
しばらくは自分の気持ちに気がつかなかった。
これが恋のはじまりだなんて思いもしなかった。
気がついたのは、恵那ちゃんが真面目な顔で「私、好きな人できちゃった」と相談をしてきた日だ。
恵那ちゃんに好きな人。私はショックだった。思わず持っていたホウキを落としてしまった。妙に大きな音で落ちたホウキに、恵那ちゃんの方が驚いて「そんな意外?」と困った顔をした。
「い、意外というか……」
好きな人。もしかして、達也くんだろうか。達也くんの想いが、届いたのだろうか。
頭をぐるぐる回る言葉に、体中から力が抜けていくようだ。落としたホウキを拾って、それを杖代わりにして立った。湿った空気が暑い。照りつける日差しが痛い。
「誰なの?」
達也くん?
問いかけると、頬を染めた恵那ちゃんは幸せそうに、耳元でその人物の名前を口にした。
「藤原先輩」
……藤原先輩? 予想とは違う人物に、反応を返せなかった。
「あ、あんたは知らないか。吹奏楽部の先輩なの。二年。先輩もサックスで、一年生の面倒を丁寧に見てくれるのよ」
色づく頬。輝く瞳。甘い声。夢見る表情。先輩を語る恵那ちゃんは、文句なしに可愛かった。遠くを見つめるその目は、先輩を見ていた。
それから恵那ちゃんは、先輩の素敵なところをたっぷりと聞かせてくれた。
背が高くて、髪がさらさらしてて、手が大きいといった外見から、根気よく練習を見てくれて、怒られて落ち込んでたら冗談を言って励ましてくれて、とてもきれいな音色でサックスを吹くといったことまで。
あの日、恵那ちゃんを見つめる達也くんを見つけた日に、恵那ちゃんの指導をしていた人が藤原先輩なんだろう。遠目でもわかるくらい顔が赤かったのは、一生懸命サックスを練習していたことともあるだろうけど、先輩がそばで教えてくれていたからなのかもしれない。
「内緒にしててね」
恥ずかしげに恵那ちゃんは締めくくった。
まあ、確かに先輩に想いを寄せているっていうのは、あんまりおおっぴらにできないだろう。吹奏楽部は人数多いし、先輩の中に藤原先輩っていう人を好きな人がいるかもしれないもんね。私は吹奏楽部でもないし、ペラペラしゃべらないと信頼してくれているから話してくれたのだろうか。
「先生に掃除終わったって報告してくるから、ゴミほかしてホウキなおしといてね」
そう言って小走りに職員室に向かう恵那ちゃんの後姿に、私は震えた。それを振り払うようにホウキを用具入れになおし、ゴミ袋を近くにあるゴミ捨て場に捨てた。
落ち着け。落ち着きなさい私。
何度も何度も言い聞かす。震える体を抱きしめた。
歓喜が沸き起こる。
その事実に、私は愕然とした。
これはなんだ。なんだというんだ!
***
「おまたせー。先生手が離せないから、もう帰っていいって」
息を弾ませて恵那ちゃんが戻ってきた。
「ついでにカバン取ってきたよ。もう帰るよね? もしよかったら、ちょっと先輩を見てってみない?」
私は頷いた。暇だったし、荒れ狂う自分の気持ちの答えを知りたかった。そのためには、恵那ちゃんの好きな人を見てみるのもいいかもしれないと思ったのだ。
けれど先輩を見にいくまでもなく、私はこの想いの正体を突きつけられた。
音楽室に行く途中、通りかかった美術室前の廊下で達也くんに会った。恵那ちゃんはいつも通り、「おーい達也くーん!」と声をかけた。達也くんも「よう」と笑う。
「達也くんも今から部活? がんばってね」
「お前もがんばれよ」
短い言葉。私にも「じゃあな」と言ってくれたけど、達也くんの目はほとんど恵那ちゃんを見ていた。
汗のじっとりとした感触が生々しかった。シャツが肌に貼りつくことが、たまらなく気持ち悪かった。
恵那ちゃんは達也くんに別れを告げると、何事もなかったかのようにうれしげに音楽室へ向かう。私はその後を付いていきながら、一度だけ後ろを振り返った。
熱い眼差し。
まっすぐと、恵那ちゃんだけを見つめる眼差し。
それはどこまでも真剣で、ひたむきで、達也くんが男なんだと改めて知った。
――私なんか景色の一部でしかないんだ。
無理やり達也くんから視線を引き剥がした。
暑さ以外の理由で、汗が額に浮かぶ。
鼓動が高まり、大きく息を吐く。
目の前には恵那ちゃんの背中。
先輩に会えることを心待ちにして、浮き足立つ恵那ちゃんの背中。
私は、達也くんが、好き?
そうじゃなければ説明できない。
この喜びを。この悔しさを。この痛みを。
恵那ちゃんは藤原先輩が好き。
達也くんは恵那ちゃんが好き。
だから、達也くんの想いは届かない。
私にも、望みがあるのかもしれない。
でも――本当にいいの?
悔しい。痛い。なにが?
頭の中にさっきの達也くんの目が浮かぶ。
その目が、私の鼓動を暴れさせる。
恵那ちゃんを見つめる達也くんの、目。
足が張り付いたように動かなくなった。
視線が縫い付けれたように恵那ちゃんの背中からはずせなかった。
気がつかなければよかった。
知らないままでいればよかった。
私が恋したのは達也くんじゃない。
達也くんが恵那ちゃんを見つめる、その目。
――あたしはその目に恋をした。
寺崎のことはよく見ていた。
だから、あいつが藤原先輩って人を想っていることはすぐに気がついた。
それでも好きだった。
***
目の前にはデッサン途中のスケッチブック。
これを仕上げれば先輩が油絵を教えてくれることになっている。
なんとなく入った美術部だけど、半年経った今は入ってよかったと思える。
真っ白なスケッチブックの上に俺自身の手で絵を描いていくと、命を吹き込んでいるように思える時がある。その感覚が、たまらない快感だった。
だけど、窓の外から聞こえてくる不揃いな音色を聞くたびに、ちょっと悔しい。
吹奏楽部が校庭の隅に出てきて、パート練習をはじめ音。
その中で、マヌケなサックスの音を聞き分ける。
この音を出している奴は、今頃顔を真っ赤にしてがんばっているのだろう。……上達することは応援するけど、おもしろくない。
深呼吸をしてキャンパスから離れた。窓側に移動して、吹奏楽部の団体に目を凝らす。
――寺崎がうれしそうに笑っていた。
サックスを抱えて、近くに立った先輩らしき男に笑いかけている。
談笑しているというより、サックスの練習を見てもらっている時に褒められたといった感じだ。すぐにサックスを吹き始め、少し吹いては先輩も自分のサックスを吹いて手本を見せている。
寺崎の上気した頬は、サックスを吹いているからだけじゃない。たぶん、近くで指導している先輩がいるからだ。
先輩を見ている寺崎の目を見ると、腹の底でじとじとしたものが疼く。今すぐ俺がその先輩に成り代わりたいくらいだ。寺崎のその視線の先に、俺が居たい。
サックスの音が届く。
他にもいろいろな音が聞こえているというのに、ちゃんと寺崎の音を聞き分けている自分が――虚しい。
***
寺崎のことを、今まで通り「恵那」と呼べなくなったのは、中学生に上がった頃だった。
別に寺崎だけじゃない。名前で呼んでいた他の女子も苗字で呼ぶようになった。やっぱり、中学になると女子を異性として意識しだしたんだろう。名前で呼ぶのはこっぱずかしかった。
いつから寺崎だけが特別になったかはわからない。
たぶん最初は、「かわいいなあ」と思ったとかなんかだろう。そういう小さなことを積み重ねていくうちに、視線が寺崎を追いかける。――好きになる。
寺崎が「達也くん」と話しかけてくるだけで幸せだった。それだけで十分だと思ってた。
「藤原先輩がね」
その甘い声に驚いた。そのうれしげな表情に眩暈がした。
数人で集まって話していた時に「吹奏楽部は運動部並に練習あるよね」と言われて、寺崎は「そうなんだよー」と部活についての話を始めた。そして、いつも指導してくれる同じ楽器の先輩の名前を口にしたのだ。
何気ない言葉だ。話の流れで、先輩の名前が出るのも不自然じゃない。他の奴は寺崎の変化に気がついていなかったと思う。寺崎は普通に名前を出しただけだ。
けれど俺は、その名前が寺崎にとっては大切なものなんだということに気がついてしまった。
寺崎を見てきたから気がついた。些細な変化に、気がついた。
その声も、その表情も、その目の輝きも、艶やかに咲き誇っていた。恋を、していた。
――腹の底で黒いものが噴き出した。
嫌だと思った。
その笑顔が先輩に向けられるのも、その声で先輩の名前を呼ぶのも、その目に先輩が映るのも、その視線が先輩を追いかけるのも。
寺崎は笑う。
笑って、この前上達したと褒められたと話す。
上達がうれしいから笑う?
違う、それ以上に先輩に褒められたことがうれしい。先輩が教えてくれたことをちゃんとできたからうれしい。相手が先輩だから、余計にうれしいんだ。
***
「おーい達也くーん!」
美術室の前で寺崎に声をかけられた。
楽しげに笑って、手を振っている。
「達也くんも今から部活? がんばってね」
妙に元気がいい。
ああ、そうか。部活に行くと先輩に会えるから、今から楽しみで楽しみで仕方がないんだろう。
「お前もがんばれよ」
寺崎は「もちろん!」と答えて、スキップでもやりだしそうな勢いで連れを促した。それでやっと寺崎が一人じゃないことに気がついた。
少し困った顔で笑っている桜木がいた。
気がつかなかったって、重傷だな。こいつとも付き合い長いのに。
「じゃあな」
桜木にも声をかける。そしたら一拍置いてから笑顔になって手を振ってきた。
……存在に気がついていなかったこと、バレてるな。
気を取り直して、体中から幸せを発散させている寺崎を見つめる。
先輩のことを想う寺崎。
先輩のもとに向かう寺崎。
どうしてその対象が俺でないんだ。
告白すれば、なにか変わるのか?
――ふいに桜木が振り向いた。
すぐに前を向いたけど、確かに桜木は振り向いた。
もしかして、寺崎をじっと見ていたことに気づかれたか?
だとしても、あのくらいで俺が寺崎を好きだなんて気がつかないだろう。気がついたとしても、桜木は言いふらすタイプでもないし……大丈夫だ。
***
窓際の席に座る寺崎を見ていた。
授業は社会だったけど、特にノートをとるわけでもなかったので、寺崎を見ていた。
そして寺崎は窓の外を見ている。
顔までは見えない。どんな顔で、どんな目で外を見ているかはわからない。
だけど、この時間が先輩のクラスが外で体育をしているということは、ここ数週間の寺崎の様子で知った。「ふじわらー」と遠くで呼ぶ声も、聞いたことがある。
俺が見つめるのは寺崎。
寺崎が見つめるのは藤原先輩。
それでも好きなんだ。
好きだと自覚した時には知っていた。
それでも諦られなかった。
先輩の隣に誰がいたとしても、諦めたくはなかった。
***
「ふじわらー」
眠気を誘われる五時間目。校庭からその名前を呼ぶ声が届く。
席替えで窓際になることができて、よかった。体育の授業を受けている藤原先輩の姿を見ることができるから。
照りつける夏の日差しの下で、先輩のクラスは校庭でサッカーをしている。
週に三回ある体育のうちこの時期はプールが二回あるから、校庭での体育は週に一回。木曜日の五時間目だけ。
先輩を少しでも多く見ることができるのはうれしいけど、どうせ窓際になるのならプールのない時期のほうがたくさん見れたかもしれない。冬はずっと校庭でマラソンだし。
歓声が上がる。藤原先輩のチームがゴールを決めたみたいだ。
部活の時とは違う、先輩の笑顔。
「遼! 今どっちが勝ってるの?」
校庭の隣にあるテニスコートから呼びかけられた名前に、先輩が「俺たち!」と楽しげに返事をする。
藤原遼。
先輩の名前。
声の主は先輩の彼女だ。
部活も同じ吹奏楽部でクラリネットをしている。
二人が付き合っていることは周知の事実。私も入部してすぐに知った。
ショートヘアがよく似合っていて、健康的に少しふっくらした体格。いつも爪がきれいに手入れされていて、クラリネットがうまくて。明るいくて、後輩の指導もしっかりしてくれる築山先輩。
楽器は違うけど、私は築山先輩が好きだ。そしてそれ以上の、嫉妬にも似た憧れ。
私は窓から目を逸らして教壇で話す先生に視線を戻した。
メンバー入れ替えでコートから出た先輩が、サッカーじゃなくてテニスコートでプレイする築山先輩を見ていたから。
そんな姿、見続けるのは――虚しい。
***
「私、好きな人できちゃった」
そう久美子に告げたのは、その日の放課後。中庭の掃除を二人でしていた時だった。
久美子はポカンとした顔をして、ホウキを落とした。
「そんな意外?」
まさかこんな反応を返されるなんて。私に好きな人ができるのって驚くことなのか?
「い、意外というか……」
暑さだけじゃない汗が久美子の額に光る。なんか、ちょっと失礼じゃない?
「誰なの?」
「藤原先輩」
名前を口にしただけど、胸の中が暖かくなった。けれど久美子は首を傾げる。
「あ、あんたは知らないか。吹奏楽部の先輩なの。二年。先輩もサックスで、一年生の面倒を丁寧に見てくれるのよ」
パートリーダーの三年の先輩は、演奏はうまいけど教えるのは苦手らしい。だから、自然と他の人が後輩指導にあたる。その中でも藤原先輩が、一番丁寧だ。
私は久美子に先輩の素敵なところをたっぷり語った。
ちょっと引きつった笑みをされたけど、関係ない。
それでも、先輩には彼女がいることは話さなかった。話す必要もなかった。
どうして久美子にわざわざ先輩の話をしているのかもわからない。ただ、二人っきりになったらどうしても話したくなった。
自分ひとりの中に想いを秘め続けるのは、つらい。
だから同じ部活じゃなくて、先輩を知らない久美子に話したくなったのかもしれない。
「内緒にしててね」
久美子は言いふらすタイプじゃないけど、ちゃんと釘を刺しておかなきゃ。
さすがに私の想いが広まるとちょっと困る。部活も気まずくなるしね。
コクリと頷いた久美子に安心して、私は掃除が終わったことを告げに職員室に走った。
そうだ、久美子に先輩をちょっと見せてみよう。
***
音楽室に久美子を誘った。
この時間なら、少し友達にサックスを見せるという名目で音楽室に部外者を入れても怒られないだろう。
途中、美術室の前の廊下で見慣れた男子生徒を発見した。
そっと久美子を観察してみると、微妙に緊張している。
おせっかいな気持ちがむくむく湧いてきた。
「おーい達也くーん!」
男子生徒に呼びかける。
小学生の時からの友達。達也くん。
そして、久美子が好きな人。
久美子が達也くんを好きだといったことはない。
だけどその視線は達也くんを追っていることに最近気がついた。
相談してくれてもいいんじゃない? と思ったけど、私だって先輩のことを話したのは今日がはじめて。久美子も、なにかの拍子に相談してくれるかもしれない。それまではそっとしておこう。
「達也くんも今から部活? がんばってね」
「お前もがんばれよ」
達也くんはいい男になったよな。
小学生の時は一緒になって悪戯をしていたけど、中学生になってから大人っぽくなった。
「じゃあな」
久美子に声をかける達也くん。
少しびっくりしたようだけど、久美子はうれしそうな笑顔で手を振った。
ああ、音楽室に久美子を誘って正解だった。二人を会わせることができたんだし。
私も早く先輩に会いたくなってきた。
浮き立つ気分のままに足も軽くなる。
――たとえ、音楽室には築山先輩がいても。
***
「こんにちはー」
元気良く挨拶をして、音楽室に入る。
「あれ、友達?」
近くにいた藤原先輩が久美子に目を止めてさっそく声をかけてくれた。
「はい、サックスってどんなのって聞かれたので、少し現物を見せたいと思いまして。少しこの子も入れていいですか?」
「うん、少しだけなら」
先輩は笑って私のサックスを手渡してくれた。
触れ合った指に、鼓動が高まる。
「こういう音が出るのよ」
サックスを吹いていると、久美子が「あの人?」と小さな声で聞いてきた。ああ、わかってくれたんだ。うれしくなって頷いた。
***
久美子は十分もせずに帰っていった。
丁寧に部の人に「お邪魔しました」と頭を下げてから。藤原先輩にも「礼儀正しい友達だな」と褒めてくれたので鼻が高かった。
基礎練習をしながら、こっそりと先輩を見る。
ちょうどその時、先輩は練習じゃなくてどこかを見ていた。
視線を辿らなくたってわかる。
クラリネットを吹く築山先輩を見ているんだ。
その優しい眼差しが向けられるのは私じゃない。
最初からわかっていたこと。
好きになる前から、わかっていたことじゃない。
それでも諦められない。諦めたくない。
その視線が私に向けられることを求めてしまう。