静かに終わるもの

掲載日:2006-08-26


 子供の頃、小川に素足で入る事が好きだった。冷たい流れはあたしを喜ばせ、ちょこちょことあたしは川の中を歩く。けれどふと後ろを振り返ると、そこにあるのは泥に濁った水。きらきらと透き通った水にあたしも溶けてしまいたかったのに、あたしが足を踏み入れれば水は濁る。それを知った時、あたしは川に足を踏み入れなくなった。汚したく、なかった。
 なのに。
 誰にも知られることのない、ひっそりとした恋があるなんて知らなかった。
 誰にも知られることもなく、静かに終わる恋があるなんて知らなかった。
 あたしは傍観者でしかなかったし、二人もあたしがその恋を知っているなんて思いもしなかったはずだ。あたしはただ二人を眺め、いつの間にか終わった恋に涙した。二人はあたしの憧れだった。
 そう里枝子に言うと「ばかじゃないの」と笑われたが、その笑顔の陰りに気づかないわけにはいかなかった。そこにあたしが入る隙はないし、資格もない。あたしがその恋を知っていると里枝子に伝えることすら禁じていたはずなのに。
 あたしは責めた。子供っぽいわがままで汚した。遠い昔、確かにあたしは気がついたはずなのに。どんなに透明で綺麗な水も、そこに何かが入れば濁ってしまうと。だから、眺めているだけでよかったのに。

  ***

「幸田先生、結婚するんだって」
 広瀬さんがそんな情報を口にしたのは、修学旅行初日の夕食でだった。同じクラスの女の子達が集まった広いテーブルで、バラバラにしゃべっていた人達が一瞬黙り、一気に騒ぎ出す。みんなが広瀬さんを注目して、詳しい情報を話すようにせっついた。
 幸田先生は我らが二年三組の担任だ。今年で二十九歳になる先生は、うちの高校の男性教師の中では一番若い。担当は古典で、丁寧な授業をしてくれるので、古典嫌いのあたしも居眠りせずに授業を受けられている。そんな幸田先生の結婚話。みんなの好奇心が刺激されないわけがない。
「幸田先生!」
 誰かが三組の男の子達のテーブルで写真を撮っていた幸田先生を呼んだ。自分が話のネタにされているとは知らない先生は、女の子達も写真を撮ってほしいと思ったらしくこちらに歩いてきてカメラを構えた。
「結婚するって本当ですか?」
 好奇心丸出しの言葉と視線に驚いたようにカメラを下ろし、何度か瞬きをしてから顔を赤らめた。
「……なんで知っている」
「大月先生と話していたのを聞いたんです」
 情報発信者の広瀬さんが言った。思い当たる事のあったらしい先生は、額に手をあてる。
「あーうん、本当だよ。半年後に結婚する予定なんだ」
 その発言により、みんなは食事そっちのけで先生の結婚相手の事や、馴れ初め話を聞きにかかった。近くのテーブルの三組の男子や他のクラスの面々も沸いた。
 あたしももちろん興味があったので聞き耳を立てていたが、会話には加わらずに食事を続けた。そして、そっと斜め前に座る里枝子を見た。食事を終えた里枝子はのんびりとお茶をすすりながら話を聞いている。あたしと一緒で会話にこそ加わろうとしないが、別段変わった様子はない。みんなにからかわれる先生を静に見つめる里枝子と、先生の視線が一瞬だけ交わった。
 里枝子は微笑んだ。

 ***

 あたしと里枝子は同じ中学出身だが、高校二年になるまで同じクラスになることはなかった。だから、今までは顔と名前を知っていた程度。今だって特別仲がいいわけではなくて、友達グループも違う。
 しかしあたし達は同じ部屋に泊まることになった。あたしのグループも里枝子のグループも、人数が半端だったので部屋割りは誰かが余った。あたしは別に誰とでもよかったので、進んでグループから外れて他の人を探していた。里枝子も同じようにグループから外れていたので、必然的にあたし達は昼間のグループ行動は別でも、部屋割りは同じになったのだ。
「里枝子」
 消灯時間まで時間があったので備え付けのテレビをいじっていたが、おもしろい番組はなくてすぐに飽きた。なので荷物の整理をしている里枝子に声をかけた。
「今日は何か買った?」
「ちんすうこうと、ストラップ……あと星の砂。あなたは?」
「お母さんの実家が沖縄にあるから、何度も来てるの。だから特別にほしいものはないのよ。まあ、ちんすうこうは好きだから買ったけど」
「そうなの。だったら、もっと別の場所に行きたかったんじゃないの?」
 本当にそうだ。沖縄の名所もマイナーな所も一通り回っている。どうせなら北海道とかに行きたかった。そしてソフトクリームを食べたい。
「私も沖縄に来たことがあるけど、前は行かなかった所もたくさんあるし、楽しいわ」
 里枝子は笑顔だ。なんの陰りもない表情で「楽しい」と言った。あたしはじっと里枝子を見つめる。先生の結婚話の時も微笑んだ里枝子。じわじわと、苛立ちが滲みだす。
「先生は、結婚するのに」
 荷物を整理する里枝子の手が止まった。
「先生と思い出のある沖縄が、楽しめるの?」
 言ってしまってから後悔した。これはあたしの胸の中に閉じ込めておかなければならいことだ。決して口にしてはいけないと自分に誓ったことなのに。
「……去年の夏も、沖縄に来たの?」
 里枝子の声は、堅い。荷物をほったらかしにして、あたしの方に向き直る。青ざめる里枝子の顔を見ると、頷くしかなかった。
「お土産屋さんで。あたしの叔父の店でちょっとバイトさせてもらっている時に」
 飛行機に乗ってやってきた沖縄で知り合いに会うだけでも驚きなのに、その組み合わせには眩暈がした。あの時は聞きおぼえのある声がするなと思って声の主を探すと幸田先生だった。一年の時は担任ではなかったけど、その時も古典は先生だった。だから声はなんとなく覚えていた。びっくりして声をかけようとしたけど、隣に女の人がいるのでやめた。でも、女の人にも見覚えがあるなーと思ったら里枝子だったのだ。先生が「里枝子」と呼び、女の人は「先生」と呼んでいたので、あっと思った。さすがに仲がいいわけでもない顔見知りなので、私服姿の彼女が里枝子だという確信はなかった。だから沖縄から家に帰った後、卒業アルバムでしっかり確認した。彼女はやはり里枝子だった。
「誰かに話した?」
 焦りを含んだ目が、探るようにあたしを見る。
「誰にも話してない」
 しばらく里枝子は何もいわず、あたしの言葉が真実かどうかを見極めているようだった。
「里枝子にも、話すつもりはなかったの」
 沈黙が重くて呟いた。軽く、里枝子は首を傾げる。
「あたしずっと見てたの。二人の関係を知ってから、ずっと」
 二人はつきあっているなんて事は欠片も見せなかった。普通の生徒と先生。特別親しいわけでも避けているわけでもない。
「家族とか、親戚だとかは思わなかったわけ?」
 思わなかったわけではない。でも。
「……キスするところを見たの。一年の文化祭の少し前に」
 里枝子の顔が引きつった。
「あれを……見たの」
 『あれを』言うくらいだから、学校やその周辺ではかなり気を使って付き合っていることを隠していたんだろう。実際あたしも沖縄で見た二人は他人の空似だったと思いはじめていた。それほど二人は普通の生徒と先生だった。

『だから、ちゃんと断ったってば』
 そんな声が聞こえてきたのは、文化祭前の放課後。準備に残っていた生徒が下校時間に合わせて帰る準備をし始める時間だった。あたしは看板担当だったので、そのペンキの筆を洗いに水道に行った。その日看板担当で残った人はあたしともう一人だけだったので、相手にその場の片付けを頼んであたしは一人でペンキを洗いに行ったのだ。残らなかった仲間に苛立っていたが、窓の外からその声が聞こえてきた時は、心底一人でよかったと思った。
 水道脇の窓は裏庭に面している。その窓は全開だったので外の声がクリアに聞こえたらしい。あたしはその声に聞き覚えがあった。そして好奇心で窓の下を除けば、案の定里枝子と先生がいた。
 先生が里枝子を校舎の壁に押し付けて、逃がさないようにしているのだ。いくらあたりが薄暗くなり初め、裏庭には人っ子一人いないとしても、文化祭前はいつもより残っている生徒は多い。しかもあたしのように窓から見下ろせば丸見えだ。とっさに他の窓が開いていないか確認したが、特別教室とトイレと水道脇の窓がほとんどなので、すでに閉じられ明かりが消えているところがほとんどだ。よかった。
『ちょ……!』
 視線を戻すとぎょっとした。先生は強引に里枝子の唇を奪っていたのだ。里枝子はもがいていたが、やがて諦めたのか抵抗をやめた。あたしはゆっくり窓から離れ、音を立てないよう慎重に窓を閉めた。洗いかけの筆を綺麗にして水をきり、教室に戻った。
 後から噂で、里枝子が同じクラスの男子に告白され断ったとい聞いた。

「私もはじめて告白されてちょっとうれしかったし、先生があんなに嫉妬するとは思わなかったから、一人でいた先生にその場で報告しちゃったのよ」
 まさか見られてるなんて……と里枝子は顔を手で覆ってうめいた。うめいて、呟いた。
「どうして今まで何もいわなかったの。同じクラスになってからも、あなたはそんな素振り見せなかったあなたが私たちを見てるなんて、気が付かなかった」
 あたしは必要以上に里枝子に近づこうとはしなかった。近づけば、二人の関係を知っていると言うと思ったからだ。実際に、言ってしまったけれど。
「二人がとてもひっそりと、静かな恋をしていたから」
 ぱっと里枝子の顔が上がる。その眉は訝しげにひそめられていた。
「あたしはそこに入り込みたくなかった。ただ、見ているだけでよかった」
 そう、ただ見ているだけでよかった。文化祭前の一件以外では、二人が親密な関係にあるなんてそぶりは全くなかった。避けるでもない。友達と一緒になって先生をからかったり質問に行ったり世間話をしていた。よくある先生と生徒の関係を二人は徹底していた。
 なのに、最近はどこかおかしかった。
 里枝子が遠くから先生を見ていることが多くなった。さりげなく、けれど確かに里枝子の視線は先生を追っていた。いつも二人を見ていたあたしはともかく、里枝子の友達が先生を見ている里枝子をからかっている場面を目撃してしまうくらいだ。その時里枝子は「先生の髪寝癖ついてるよね」とか言って誤魔化していたが、里枝子の周りの人がその視線に気がついてしまうくらいに頻繁に先生を追っているのだ。
 先生も里枝子を見ていた。里枝子ほど頻繁ではないけれど、確かに里枝子を見ていた。けれど二人の視線が交わることはめったにない。交わったとしても、今日のようにすぐに逸らしてしまう。
 そして、今日知った幸田先生の結婚話。二人の恋が終わったことを意味する結婚話。食堂では冷静さを保っていたけれど、内心ではかなり動揺していた。あたしは、二人の恋はいつまでも続くと思いこんでいたから。
「里枝子は知ってたの。先生が結婚するって」
「ええ、知ってたわ」
 柔らかく、里枝子は微笑む。その笑顔はとても綺麗で、大人びていて。
「はじめは話を持ってきたお父様の顔を立てるためにお見合いをしたの。その時は先生も嫌がってたわ。盛大に私に愚痴をこぼしていたし。でもね、先方は先生を気に入って、先生もその人とは気が合って、何度か会っていたみたい。それで、結婚まで話が進んだの」
 お見合いのあった次の日から、先生の様子が変わったらしい。隠し事をしているとすぐにわかったと里枝子は言った。
「どうしてお前は生徒なんだろうって、先生がお酒を飲んだ時に言ったの」
 里枝子はぽつぽつと先生とのことを話しだした。二人の出会いは里枝子が中学三年の時、通学電車の中だったようだ。
 あたし達の中学は校区の端っこに学校があるという不親切な配置だったので、歩いて通うにはしんどい場所に家がある人もいる。幸い学校のそばには駅があったので、電車通学許可者が何人もいた。里枝子もそのうちの一人だった。
 九月頃、里枝子は電車の中で貧血を起こして倒れた。その時助けてくれたのが幸田先生だと懐かしそうに里枝子は笑う。それ以降も電車で会うと短いながら言葉を交わすようになったらしい。
 しばらくして幸田先生が自分の志望校の先生と知り、里枝子は受験勉強をがんばったという。その時は好きだとかはっきりした感情はなかったようだが、漠然とした好意を抱いていたのだろう。
 けれど先生は電車から自動車通学に変えてしまい、会うこともなくなった。里枝子は余計に勉強をがんばった。高校に行けば会えると知っていたから。そして、見事合格して先生と再会した。
「先生ははじめ、私のこと知らんぷりしたのよ。電車であった中学生の女のこのことなんか忘れたんだって落ち込んだんだけど、たまたま私が一人でいた時『おめでとう』っていきなり言ってきたの。五月に入ってから合格のお祝いの言葉なんてびっくりしたわ。でもね、覚えていてくれたことがうれしかった」
 かすかに上気した里枝子の頬を見つめたままあたしは里枝子の言葉に耳を傾ける。
「六月の終わり頃に集めた課題をもって国語準備室に行ったの。その時先生は一人しかいなくて、私は気が付いたら告白してた。先生は難しい顔で『お前は俺の生徒なんだ』って言ったわ。私も分かってたし、忘れてくださいって出て行こうとしたんだけど『でも俺も米沢が好きだ』って目を合わせずにボソッと言ったのよ。それから、学校ではただの生徒と先生として、でもプライベートでは恋人として今までやってきた。幸せだった。二人で沖縄にも来れたしね」
 本当幸せそうに里枝子は語る。あたしの知らない二人の世界が垣間見えた。
「けど、先生も不安だった。生徒と付き合うことは重荷だったのよ」
 寂しげに里枝子の顔が歪む。
「先生は確かに私を好きでいてくれた。でも、生徒でもなんでもない女の人が現れて、その人にも好意を持って、気持ちが揺れて……。先生は彼女を選んだのは仕方のないことなの」
「仕方ないなんて、変よ」
 むかむかとしてきた思いのままにあたしは口を開いた。
「里枝子がいるのに、先生はひどい」
 里枝子は苦笑してもう一度「仕方ないのよ」と言った。わかっている。卒業までは後一年以上ある。それまでずっと隠し通せるかなんてわからない。里枝子は高校をちゃんと卒業したいだろうし、先生も教師になるのが夢だったと授業中に言っていたのを覚えている。
「十一も歳が離れているの。歳なんて関係ないって思ったけど、私にも不安はあったの」
 視界がにじむ。
「どうしてあなたが泣くの?」
 目から涙が溢れる。あたしは部外者で全然関係ないのに、胸が苦しい。
 二人はあたしの憧れだった。
 二人を見ることが好きだった。
 二人の恋が続くことを願ってた。

 あたし達の部屋のドアがノックされる。時計を見ると消灯時間前だ。点呼だろうか。泣いているあたしを出すわけにはいかないと思ったのか、里枝子がドアを向かう。
「米沢と高坂、二人ともいるか?」
 幸田先生の声。
「はい」
 二人の視線はドアに背を向けた状態でベットに座るあたしに注がれていたようで、「高坂は気分でも悪いのか?」と振り向かないあたしを心配して先生は里枝子に問いかける。里枝子は曖昧に笑っているだろう。まさかあたしが二人のことでないているなんて言えはしない。
 むくりと、あたしの中に意地悪な感情が沸きたった。乱暴に涙を拭いて振り返る。
「どっどうしたんだ」
 涙の後の残るあたしの顔に先生は驚いたようだ。隣で里枝子も目を見開いてあたしを見つめる。
「米沢、高坂はどうしたんだ?」
 おろおろと里枝子とあたしを見比べる先生が妙に苛立った。
「里枝子を振ったこと、先生きっと後悔するから」
 二人の顔が強張った。
「なんで……」
 かすれた声で先生はあたしを凝視する。
「去年の夏休みも、あたしは母の実家のある沖縄に来たの。土産屋でバイトもしたわ」
 それだけで十分だ。それ以上は何も言えなかった。また涙がこみ上げる。
 子供みたいだ。大好きなおもちゃを取られて泣く子供みたい。二人の中ではちゃんと終わらせている恋を、自分の身勝手な感情で引っ掻き回した。あたしが好きだった静かな恋を、自分で汚した。
「二人はあたしの憧れだった」
 震える声で絞り出した言葉は、二人にどう届いたのだろう。
「先生、ここは私一人で大丈夫ですから、点呼に戻ってください」
 里枝子があたしの頭をなでる。
「ああ……わかった」
 わかったと言いながら先生はしばらくその場を動かなかった。何かを言おうと口を開いたが、結局は何も言わずに出て行った。
「びっくりしたじゃない」
 ちょっと怒った口調で里枝子は自分のベットに腰を下ろした。
「ごめんなさい」
 本当に馬鹿だ。軽率だ。
「でもね」
 里枝子は微笑む。
「私を振ったことを後悔するっていうのは、スカッとしたわ」
 言いながらベットに仰向けになった。
「後悔させる女にならなくちゃね」
 くすくすと笑う。笑い声はいつの間にか途絶え、天井を見る里枝子の目から涙がこぼれた。
「後悔、させてやるんだから」

 私は先生が本当に大好き。
 今だって、大好き。
 嗚咽交じりの声で、里枝子は言った。

 ***

 四月になり、あたし達は三年になった。
 修学旅行以降よく一緒にいるようになった里枝子とも同じクラスになり、その記念をかねてカラオケに行くことにした。始業式は早めに終わったので、カラオケの前に腹ごしらえをするため近くのファミレスに入った。
 ドリアを食べていた里枝子は不満そうにスプーンで表面をつつく。
「……婚約解消ってどういうことよ」
 スパゲティを食べ終え、デザートのパフェに取り掛かっていたあたしは、ようやくこの話題に触れた里枝子を見た。
 幸田先生が婚約を解消したといううわさが新学期早々駆け巡っていた。人づてにそれを知った里枝子は絶句し、次にどこかに消えて、帰って来たあとは一度もその話題に触れずにファミレスで昼食をとりはじめたため心配していたのだ。
「直接聞きに行ったの?」
「人のいないところに行って、電話した」
 まだメモリーを消していなかったのか。それとも暗記していたのか?
「そしたらなんて言ったと思う? 『意外と遅かったな』よ。一月末には正式に婚約解消してたんですって」
 何も知らされていなかったことがだいぶショックだったらしく、ショックは怒りに変わりいつの間にかドリアはグチャグチャにされていた。
「何で解消したの?」
 あたしとしては里枝子のことが忘れられなかったから、という理由だとうれしいんだけど。
「お互いに進んで解消したみたいよ。先方は叶わぬ恋をしていて、それを終わりにしたくてお見合いしたんですって。で、そのお見合い相手を気に入って、この人となら結婚してもいいって思ったらしいわ。新しい恋で叶わぬ恋を切り捨てようとしたけど、やっぱそうそう捨てられなかったみたいよ。婚約話が出ると、相手が驚いたらしくて引き止めたんですって。そうするともう駄目。そっちに傾く」
 叶わぬ恋というのも気になるが、もう一つの恋のほうが気になる。
「先生は?」
 里枝子は嫌そうに顔をしかめた。
「知らない」
 ぶっきらぼうに言い切った。そしてそれ以上は何も言わずに、グチャグチャになったドリアの残りを食べ始める。
 里枝子はきれいになった。修学旅行のあの晩、絶対後悔させてやるんだからという宣言通りだ。
 髪型を変えたり、怒られない程度にうっすら化粧したりはもちろん、積極的にクラス行事を盛りたてたり生徒会役員をやったりと日々努力している。生き生きと笑う里枝子は魅力的だった幸田先生もきっと、そんな里枝子を無視なんてできなかったはずだ。
「……って言われたの」
 ぼそりと里枝子が言ったらしいが残念ながら聞き取れなかった。聞き返すと、不機嫌な表情をしているけど恥ずかしそうに顔を赤らめてもいる里枝子は低い声でもう一度言ってくれた。
「『次は俺がお前を落としてやる』って言われたの」
 落とされてなんかやらないわとぶつぶつと里枝子は呟いていたが、もうすでに落とされているみたいだ。あたしが声を押し殺して笑うと、赤い顔のまま軽く睨んできた。
 そもそも『次は』というが、はじめに落とされたのは里枝子だと思っていた。今までの話からすると里枝子もそう思っているとはずだけど、本当は先に落とされていたのは先生の方だったのかもしれない。幸田先生は教師だから、表に出そうとはしなかっただろうけど。
 あたしは今度は声を上げて笑った。この先二人がどうなるかが楽しみだ。一度振られた里枝子がやすやすと許すとは思えないけど、それは先生が悪い。せいぜい頑張ってもらおう。受験生の憂鬱は、二人を見ていると晴れそうだ。

 ああ、あたしも恋がしたいな。


 透明感のある静かな恋が描きたくて書いたはずの作品。あまりそういう表現が出来なくて残念です。静かにはじまって、続いて、終わる恋ってなんだか憧れません? 実際にそんな恋は苦しいだけだと思うけど、小説とかではそういう恋の方が好きだったりします。

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